高校への進学を控えた中学3年生にとっては、夏休みの宿題も重要です。なにしろ内申書でいちばん重視される傾向にあるのは中学3年の2学期の成績(学校によって事情は異なります。広範囲にみる学校だと中2の成績から算入しますし、中3の3学期の成績を公立高校の内申書に反映させる場合も少なくありません。それでも、影響力がもっとも大きいのが中3の2学期というのは多くの場合に当てはまります)。ですから、2学期の成績に影響する夏休みの宿題は、必須項目ということになるはずです。
けれど、それ以外の学年の場合、少し事情は異なってくると私は思います。
夏休みの宿題は、大きく2つに分類されます。ドリル系と自由課題系です。ドリル系には夏休み専用に業者が開発・販売している問題集や日常的に使っている傍用問題集からの指定ページ、さらには夏休み用のプリント類などがあります。その内容は基本的に復習です。多くの場合、一学期に学習した内容の復習問題が羅列されています。これを何十ページもこなしていかなければなりません。
自由課題系は、いわゆる「自由研究」と「作文」に大別されます。自由研究は理科系のものと社会科系のものに分けられますが、これはどちらかを選択すればいいので両方やることはないでしょう。作文は多くの場合「読書感想文」が必須であり、その他はコンクールの枠組みで応募するためのものが課されることが多いようです。これは応募自由の場合と、必須として課される場合があります。たとえば学校によっては、「人権作文は必ず書いてきなさい」と指定されるような場合があったりします。
これらの課題は、それぞれ目的があって出されます。ドリル系の目的は、「一学期の学習の定着」です。せっかく一学期で身につけたことを夏休みのあいだに忘れてしまってはその先の学習に支障が生じます。学習は積み重ねですから、しっかりと定着させておかなければ次の単元に進めません。だからこそ、繰り返しのドリルを夏休みのあいだに反復してもらおうということです。一方の自由課題系は、「ふだんできないような発展的な学習」が狙いになります。必ずしも高度な内容である必要はありませんが、通常の課程のなかでは取り上げられない発展的な内容が期待されます。生徒ひとりひとりの関心や理解はさまざまなので、あえてテーマを与えず、それぞれの個性に応じて取り組んでもらうことを期待するわけです。
と、目的はわかるのですが、果たしてその目的が妥当なのか、という点で私は疑問を感じずにおれません。特にドリル系の「学習の定着」という目的です。
たしかに、せっかく勉強したことをしっかり定着させるのはたいせつなことだ、という考えはわかります。けれど、別の考えもあると思うのです。定着しなかったことは、いちど忘れてしまってもかまわないだろう、という考えかたです。むしろ、忘れてしまったほうがいいのではないかという考えかたです。
というのは、学校の勉強の多くは、理解できなくても訓練することによってどうにかなってしまうものがほとんどだからです。たとえば小学校の筆算ですが、これは数の性質を理解する上で非常に重要な概念です。ところが、筆算は、数の性質を理解しなくても、手順さえおぼえてしまえばいくらでもこなすことができます。中学1年、2年で学ぶ方程式も、中学3年で学ぶ因数分解もそうです。いずれも手順としておぼえてしまえるものであって、その根本にある数の性質を理解する必要はありません。少なくとも、目の前の点数をとるためだけであれば、理解よりも訓練を優先させたほうが効率がいいわけです。理科や社会の「重要語句」を暗記するのも同じです。訓練によって身につくのは理解ではなく正解への手順です。そしてそういった訓練の道具として、ドリル系の問題集が存在するわけです。だから、ドリル系の宿題で獲得する「定着」は、「理解」ではなく「手順の記憶」です。
しかし、小学校、中学校の学習で、ほんとうに重要なのは理解です。あるいは、理解する能力を高めることです。理解のないまま訓練で乗り切ることが「基礎づくり」になるとは思えません。「わからないけれど解ける」という状態がもっとも厄介です。
たとえば、比率の感覚は、小学生にはなかなかつかむことができません。けれど、しょせんは3タイプしか問題はありませんから(あるいは9種類しか問題はありませんから)、訓練してこの3タイプの問題を解けるようにすれば、この単元はクリアできます。しかしながら、中学生になって方程式が登場したときに、しっかり感覚的に理解できていれば何の問題もなく解けるはずの応用問題が、訓練で乗り切ってきた生徒には非常にハードルが高いものになります。そして、表面上、ほんとうに理解している生徒と手順を覚えているだけの生徒は見分けられないのです。
どうにもうまくいかなくてようやく「比率の理解が不十分なのかな」と推測できても、本人は完璧にマスターしているつもりになっているので、改めて教え直すのが難しくなります。こんなとき、「いっそ、忘れていてくれたら楽なのになあ」と思ってしまうことも、正直言ってあるのです。
奇妙に聞こえるかもしれませんが、積み重ねが何より大切な基礎学習において、どんな生徒にも不連続な飛躍が起こる時期があります。子どもたちは、身体的、精神的に常に成長しています。日常的な経験も日々積み重なっていきます。数カ月のうちに、理解力、判断力が大きく変化することは珍しくありません。その結果、1年前、2年前、あるいは数カ月前にどうしても理解できなかったことが、改めて同じ説明を受けてみると拍子抜けするほどあっさりと理解できたりします。
ですから、「基礎をしっかり築く」ということと、「それまでの学年で学んだことを全ておぼえている」ということは、実は似ているけれど根本的にちがいます。そして、いったん学んだことを忘れることは、実は「基礎をしっかり築く」上で何の障害にもなりません。
学習内容を理解すれば、記憶すべきことがらは意外とすくないものです。ごくわずかのことしかおぼえなくていいのですから、勉強にそれほど時間はかかりません。たとえば、きちんとした理解力が身についている12歳の生徒がいるとします。理解力はあるけれども、算数の勉強は全て忘れているとします(実際にはそういうケースはほぼあり得ません。けれど、何らかの理由で学校の学習から脱落してしまった生徒は、「全て忘れている」わけでなくとも、ある部分がすっぽり抜け落ちていたりします。そういう生徒には実際に何度か巡りあっています)。さて、小学校の算数を全て基礎からやり直すのに、どれだけの時間がかかるでしょう? 小学校1年から6年まで、算数の授業はざっと900時間(実質時間で600時間ぐらい)あります。それだけの時間が必要でしょうか。いいえ、12歳の生徒なら、基礎がゼロでも30時間ぐらいあれば小学算数をひと通り理解してもらうことは可能でしょう。深く理解してもらうにはあともう20時間ぐらいは欲しいかもしれませんし、6年間しっかりやってきた生徒と同じぐらいの計算能力まであげるならトレーニングの時間も必要になります。それにしても、600時間もいらないんですね。その1割か2割です。個人差もありますが、12歳の理解力があれば、6歳や7歳の理解力で何十時間もかかった単元をほんの数十分で消化することができます。「学問は積み上げだ」と言いながら、実はその程度のものであるわけです。
ただし、実はここで、私はかなり無理な前提を立てています。「理解力はある」という前提です。この「理解力」を育て上げるために、12歳に教えればわずか数十分で済むことをわざわざ6歳から何十時間もかけて教えているわけです。学問の内容は、集中して学べばごく短時間で身につけることができます。しかし、考える力は、一朝一夕に身につきません。それを身につける場が小学校、中学校であるわけです。
であるならば、教科の内容なんて忘れてしまってかまわないのです。むしろ、無理やり「定着」させたイメージは、歪んでしまって正確な理解を妨げる障害物にさえなり得ます。なぜなら、人間の記憶力は必ず裏切るからです。人間は忘れる生物だということを、全ての学習の前提におかねばなりません。もしも中途半端な記憶を頼りに手順を踏んでいけば、必ずどこかで間違えます。それが人間というものです。
しかし、きれいサッパリ忘れていればどうでしょう。頼りにすべき記憶はありません。問題を解決するには、自分自身の頭を使うしかありません。推論を立て、検証し、一歩一歩進んでいくよりほかありません。そして、それこそが唯一、正解に至る道筋です。推論を立てて検証しながら進んでいく能力、すなわち「考える力」がきちんと身についていれば、中途半端な記憶などなくても大丈夫です。むしろ、誤った記憶に裏切られる可能性を排除できるだけ有利だとさえ言えるでしょう。
勉強とは、おぼえることではありません。考え、理解するプロセスを繰り返すことで、理解力、考える力を養っていくことです。そういった能力さえ身についていれば、すべてをわすれてしまっても、それを再構築するために必要な時間はごくわずかですみます。むしろ、再構築するチャンスを与えられれば、身体的、精神的に成長しているぶんだけ、シンプルで高度な理解に到達することが可能になります。そのためには、忘れることが案外と重要です。
ドリル系の夏休みの宿題は、そういった観点からみれば「余計なことだなあ」と思えてしまいます。せっかくの夏休みです。わくわくする気持ちを自由に解き放って、しんどかった勉強のことは全て忘れてしまうべきではないでしょうか。忘れてしまって白紙に戻して、もういちど書きなおすことができれば、どれほど先に伸びていくことができるでしょうか。それを許すだけの余裕がない現代の世相というものが、子どもたちを窮屈な場所に追いやっているのではないかなあと、私には思えてしかたありません。