なぜ家庭教師と「貧困」が関係があるのかと訝しがられる方もいるかもしれません。家庭教師のイメージは、裕福な家庭の子どもの教育にあたる専門家であり、「貧困」とはまるで縁がないように思えるかもしれません。たしかに高額な家庭教師の月謝を支払える家庭は、「貧困」家庭ではありません。食費を削ってまで家庭教師を雇うような家庭はあり得ません。
けれど、実際に家庭教師をしてみれば、生徒は決して裕福な家庭の子どもたちばかりではないことに気づくはずです。もちろんなかには、有名人の子弟や驚くような豪邸に住む生徒もいます。けれど大半はごくふつうの、どこにでもある家庭です。そして、単親家庭が珍しくないこの時代、生徒のかなりの割合が単親家庭の子どもたちです。それは一般の比率以上に高く、大雑把な数でいえば私がこれまでに受け持った生徒たちのうち3分の1が母子世帯の子どもたちでした。
なぜ今回、特にこのグループの勉強会に出席させてもらおうと思ったのか、その理由がここにあります。このグループは、「母子家庭などひとり親世帯の貧困」を特に中心的な課題に活動していると聞いたからです。単親家庭に特有な問題のありかを考えるヒントが得られれば、自分の生徒たちに対してより有効なアプローチがとれるのではないかと考えたのです。
「貧困」の問題が語られるときのキーワードは、「貧困の再生産」です。貧困家庭に育った子どもたちは、長じて貧困家庭を築きやすいと言われます。そしてそのメカニズムのひとつとしてあげられるのが教育です。裕福な家庭は教育に対する投資が大きく、その結果として子どもは高学歴となり、安定した収入を得られる、逆に教育に対する投資が制限される貧困家庭では、子どもが十分な教育を受けられないため、将来の収入が不安定になりがちだ、というのがその非常に大雑把な考え方であるようです。
生徒たちを見ていて、このメカニズムに頷ける側面があるなと思う一方、私の中で「それはちがうだろう」と感じる部分もかなりあります。頷けるというのは、たしかに世間の多くの親は、そういった「教育の投資効果」を信じているのだなと感じることです。たとえば、私が受け持った母子家庭の生徒の母親の職業は、圧倒的に医療関係の比率が高くなっていました。学歴が現在の収入と直結しているこのような職業の親が、子どもの学歴を重視するのは自然な成り行きです。医療関係の職種であれば母子家庭でも家庭教師を雇うぐらいの収入はありますから、忙しい自分に代わって子どもの教育をしっかりみてくれる家庭教師を雇いたいと考えるのは自然なことでしょう。こんなふうに、ほとんどの家庭は「教育に対する投資」が将来の経済的安定をもたらすと考えて家庭教師を雇っているのです。
「それはちがうだろう」と違和感を感じるのは、私の目からみて、そういった「教育への投資」が、決して子どもを幸福にしていないことがわかるからです。多くの家庭では、家庭教師に行き着く前にまずは学習塾に投資しています。そして、学習塾の指導が多くの場合に子どもを本来の学問から遠ざけてしまい、勉強を無意味な訓練にすり替えてしまっているのは、この場で何度も書いてきたとおりです。さらに、(私はそうならないように心がけていますが)家庭教師でさえ学習塾と同じ過ちをおかして生徒に労多くして功少ない苦行を押しつける場合が多いのもまた、否定できない事実です。つまり、「教育への投資」は、現実にはたいして実を結ばないのです。
ただ、そうであっても、裕福な家庭とそうではない家庭、特に母子家庭を比較してみた場合、前者の生徒のほうが学業優秀である場合が多いように感じます。それは、「教育への投資」の金額の多寡ではなく、単純に子どもが人のつながりから放置されているかどうかのちがいであるように思えます。以前、「できない子」を選ぶ子どもたちという記事で、大人にかまってもらう心理的なニーズを満たすためにあえて「できない子」を演じる小学4年生のことを書きました。彼もまた、母子家庭の子どもです。私が危惧していたのは、そうやって「できない子」に自分を同化させているうちに、彼が本当に勉強を理解できなくなってしまうことでした。満たされない本質的な欲求がある子どもは、それが満たされている子どもに比べて成績が下がることが多いように感じます。それはコミュニケーション能力の問題であったり、達成感の欠如であったりと、直接の理由は一様ではありません。それでも、たっぷりと家族や仲間と過ごす時間を確保できている生徒が学業でも有利であるというのは、案外と「再生産」の隠された要因であるのかもしれません。
もちろん、単親家庭の子どもが十分な「愛情」を受けていないなど間違っても言うつもりはありません。両親が揃って子どもの面倒を見るのが理想だなどと、現実と乖離したことを言うつもりもありません。人はさまざまな事情によって家族の形態を変えるものだし、その中でできる限りのことをしているものだからです。
そうではなく、子どもの幸福、「将来の安定」を、「教育への投資」といった観点から外したほうがいいのではないかと思うのです。家庭教師なんか雇うよりも、子どもがほかの人とのつながりをつけていけるような活動に「投資」すべきではないかと思います。あるいは、同じ家庭教師を雇うのであれば、その目的を目先の成績から外すべきです。テストの点数や通信簿の数値を気にするのではなく、子どもの知性が本来の方向に自由に伸びていくのをサポートする役割を家庭教師に求めてはどうでしょうか。
そうすることで、いくらかでも子どもたちが感じている本質的な欠乏感が満たされるのであれば、それこそが最終的な「将来の安定」をもたらしてくれるのではないかと私は感じています。逆に、「教育への投資」といった観点では、単親家庭の窮状は救えず、やがてそれがマイナスの再生産に結びつく危険性さえあるのではないかと思います。
とはいいながら、問題は単親家庭の教育方針で済むような話ではないのでしょう。それはある意味、自己決定による自己責任論に結びつきます。そうではなく、社会全体が陥ってしまった「勉強すればいい学校に行くことができ、いい学校に行けば収入のいい仕事につくことができる」という単線的な発想から、社会が全体として抜け出すことが必要なのでしょう。この発想は、古い時代の「低い身分に生まれたら一生そこから抜け出せない」という固定的な発想から人間が自由になるためには重要だったのだろうと思います。けれど、その歴史的な役割はとうに終わっています。これからの時代には、もっともっと人間を自由にしていく新たな発想が必要になるはずです。
そんな時代に家庭教師をしていたいものだと、そんなふうに願わずにおれません。