「正しく発せられた問は問題を半ばまで解決している」と言われます。ならば、すべての問は「正しく発せられ」なければならないのかというと、疑問が生じた時点ではそれが「正しい」かどうかなどわかるはずもありません。問題を解決するためには、どんなことでも、とにかく疑問をもつことが第一歩です。
なぜこんなことを書いたのかというと、ある中3生の指導をしていて、「勉強をどうやっていいかわからない」というので、具体的な状況を根掘り葉掘り聞いてみたのです。こちらも宿題を出し、具体的にどう進めるべきかを指導してきた上での話なので、「これは放っておけないな」と思いました。
受験生ですから、学校から帰って夕食までの間も少しは勉強します。そして食後、そのまま居間に座って、勉強を続けます。家族はテレビを見ています。私はそれでかまわないと思います。もちろん、テレビがついていれば多少の集中力は削がれます。ですから、すべての勉強時間をテレビのついている環境でやるべきではないでしょう。ただ、受験生で長時間勉強するのなら、集中する時間とダレている時間と、両方あってかまわないでしょう。そして、家族のいる前で勉強するのは、案外とわるくないものです。単純な書き取りであるとか練習系のものなら、そういう環境でもかまわないと思いました。
「それでいいじゃない」といっても、彼は困った顔をしています。そこで、勉強をどんなふうに進めているのか、事実あったことをなぞるようにたずねていきました。まず、テキストを広げ、問題にとりかかります。社会科のワークをやっていたということです。穴埋め問題を書き込んでいて、ふと気になりました。「ASEANって、なんでアセアンなんだろう? アジアだったらアジアンじゃないの?」
彼は、その場にいた家族に疑問をそのままぶつけました。すると、返ってきた反応は、「つまらないことを考えてないで、勉強しなさい」だったそうです。
ありそうな話ですね。そして、これがアウトです。なぜなら、疑問を解決していくことこそが勉強です。そして、彼の疑問は、確かにそのときに解いている穴埋め問題とは全く関係のないものだったかもしれません。けれど、それは正しい問いかけに至る手前で避けて通ることのできない疑問です。この疑問を展開させていくことで、正しい理解につながる正しい問いかけができるかもしれません。
それを入り口で、「そんなことよりも勉強しろ」と否定されるわけです。「勉強をどうやっていいかわからない」となるのは、あたりまえではないでしょうか。
もちろん、教師でもないご家族に、こういった疑問を正しい方向に導いていくことを求めるべきではないでしょう。そのためにこそ、家庭教師がいるわけです。家庭教師には、なにを聞いてくれてもOKです。「そういう疑問が浮かんだら、メモをしておいてください。次に来たときに聞いてくれたら、そこから一緒に勉強を進めましょう」と、私は言いました。
大人から見たらつまらない疑問に見えることかもしれません。けれど、すべての疑問は、否定してはなりません。疑問からしか、正しい学習は始まらないのですから。