しかし、成功や失敗は、実は案外と検証が不可能なものです。単純なゲームであれば勝敗から成功・失敗を導くのは簡単でしょう。人生はそうではありません。なによりも、繰り返しのきかないものです。「あのときそうしていたら」という仮定にもとづいた話は、どこまでいっても水掛け論に終わります。たとえば、スポーツ界では長いこと、「運動中に水を飲むのは体に良くない」と信じられてきました。これは、「運動中に水を飲んだら腹が痛くなった」とか、「バテた」といった失敗体験、あるいは「水を飲まずに頑張ったから勝てた」という成功体験にもとづいていたはずです。けれど、それは単純に適切な水分補給の方法を知らなかったという無知のなせるわざであったわけで、現代ではだれもそんなことは信じていません。このように、「過去から学ぶ」というのは、案外と根拠のないものなのですね。
大人と子どもを比較したときの大人の最大のアドバンテージは経験です。ですから、大人は子どもに対して経験でものを言おうとします。典型的なのが、「もっと勉強しなさい」というアドバイスです。そのアドバイスの裏側には、「自分は受験勉強に頑張って志望校に合格できた。だから勉強に頑張ることが大切なのだ」という経験があります(高校入試の場合、平均的な倍率は1.1倍程度ですから、実は合格できた人のほうが圧倒的に多いのです)。成功体験があるからこそ、先達者として子どもたちに「勉強しろ」と言えるのです。
あるいは、なかには「志望校に合格できなかった」という失敗体験にもとづいて語る大人もいるかもしれません(大学入試では学校によっては倍率が跳ね上がりますから、合格者のほうが少数になることも珍しくありません)。「もっと勉強していたら合格したはずだ」と思うからこそ、子どもたちに「勉強しろ」というのかもしれません。失敗体験が、重要な根拠となっているわけです。
けれど、冷静に考えてみましょう。果たして本当に、「勉強したから合格した」のでしょうか。その因果関係を証明することはできません。もしも勉強しなかったら、合格しなかったのでしょうか? 証明はできません。ひょっとしたら、勉強しなくても合格できたのかもしれません。
本当に、「もっと勉強していたら合格したはず」でしょうか? そのときの方法では、いくら勉強しても無理だったのかもしれません。もっと発想を変えて別の方面からアプローチしなければいけなかったのかもしれません。そして、そうしていれば、もっと少ない努力で合格できていたかもしれません。
こういった考証を一切することなく、「頑張れば成果が出るはず」と疑いもしない大人が多いのが残念ながら現実です。おそらく、成功体験、失敗体験として既に定着してしまっているものを改めて掘り起こして考えなおす必要を人間は認めないからでしょう。
一般人である「親」がそんなふうに根拠の薄い成功体験(あるいは失敗体験)にもとづいて子どもたちに接するのは、ある程度、いたしかたのないことだと思います。しかし、専門家である教師がそれでは、ちょっと考えものです。ところが、学校と言わず塾と言わず、あるいは多くの家庭教師でさえ、そういった無反省な成功体験をもとに授業を行っているのが実態ではないでしょうか。
多くの教師は、受験競争を経て現在の地位をつかんでいます。ほとんどが、受験競争の勝者であり、同時に敗者です。勝者であるというのは必ずどこかの時点で受験に成功していなければ学歴が要求される教師の職にはつけないからであり、敗者であるというのは、(一部の例外はあるにせよ)最初から教師を目指していて現在の教師の職に満足している人はおそらくそれほど多くはないからです。「もっといい学校を出ていたらもっといい職につけたはず」とか、「もっと成績が良ければもっといい条件で採用されたはず」というのは、多くの教師が口には出さずとも思っていることでしょう。
ただ、教師という立場に立ったとき、「敗者」であることは意識から後退し、「勝者」であることだけが強調されるように思います。これは奇妙な教師のメンタリティですが、「教える側が上」という古めかしい師弟観から自動的に出てくるようです。そして、自分を勝者と意識することで、自分自身の成功体験を元に生徒を導こうとします。「自分はこうやったから成績が上がった。だから生徒もそうすべきだ」と、むかし教えられたことをそのまま生徒に適用しようとします。
教育が変わりにくいことの本質が、ここにあります。教師はなぜ自分が教えられたことを教えられたとおりに生徒に教えるのを好むのか。それは、それが成功体験につながっているからです。実際、学校で教えられる内容は、驚くほど変化していません。私が生徒だった数十年前と現在と、実験器具の扱いや素材が変化し、いくらかの内容が課程から落とされ、あるいは追加されたとはいえ、大半はまるで変化しません。「真理が変化しないのだから」(つまり1足す1は永遠に2なのだから)ということでこれは疑いもされませんが、その間の学問全体の急激な変化を考えれば、これは実に奇妙です。本来、教育はもっと進歩していてもおかしくないのです。
しかし、教育は変わりません。なぜなら、教師が自分自身の成功体験を元に、「こうやっていれば生徒もうまくいくのだ」と無意識に枠組みをつくってしまっているからです。それが代々、疑われもせずに受け継がれてきているのです。
けれど、その成功体験は疑わしいものです。まずは事実を検証すること。それこそが正しい学問であり、子どもたちに学問を教える教師のとるべき姿勢です。それが蔑ろにされているのは残念なことですが、その結果として、子どもたちに無理難題が押しつけられている現状は、残念どころではありません。「オレは1日8時間勉強して成功したんだから、オマエもそうすべきだ」というのは、ほとんど脅迫でしかないのではないでしょうか。
「自分の成功体験は失敗体験かもしれない」。そういった反省を常に忘れないようにしたいものです。