こ れは、私が勝手にそう思っているのではありません。それを証拠に、義務教育を定めた教育基本法にも、それを現場に当てはめるための文部科学省公式の学習指 導要領にも、「勉強」という単語はひとつも出てきません。この一事だけとっても、「学校は勉強をするところだ」という理解が誤っていることがわかります。 正しい用語を使うのであれば、「学校は学習するところ」であるわけです。
言葉遊びをしているのではありません。「勉強」という言葉の歴史については、
「勉強」の意味変遷についての考察 : 明治大正時代を中心に (胡 新祥, 立教大学大学院日本文学論叢vol.13)
が 参考になります。上記タイトルで検索すれば原論文はすぐに出てきます。
こ の研究によると、「勉強」の原義は「努力をして困難に立ち向かうこと」であり、後 に転じて中国では「気が進まないことを、しかたなしにすること」となり、現代中国語では「無理にすること」となっているそうです。日本でこの語が用いられ るようになったのは江戸時代であり、当初はやはり「努力をして困難に立ち向かうこと」であったのが明治時代になって「将来のために学問や技術などを学ぶこ と」「修行や経験をすること」の意味に転化されたもののようです。しかもそれは、当初は「学文に勉強する」のように学問や技術などを目的語としてそれを 「勉強する」つまり「頑張る」の意味だったのが、後に目的語をとらずに「学ぶ」意味に変化したということです。つまり、「学ぶ」の意味での「勉強」の歴史 はたかだか100年そこそこであるわけです。
まして、「勉強」が、「教科の指導内容」の意味で用いられるようになったのは、ごくごく最近のこと ではないかと思います。そして、百歩譲って「学ぶことは頑張ることを伴うのだから勉強という言葉を使うのも根拠のないことではない」と考えるにしても、そ の学ぶ内容を「勉強」と呼ぶのはどう考えても無理だということがわかります。
となると、この最近の使い方「勉強がわからない」(つまり「教科内容が理解できない」)とか「勉強を教えてください」(「学校の教科内容を教えてほしい」)という用法は、はっきりと誤用であると言い切ってかまわないわけです。
誤った言葉は、たとえそれが世間一般の常識として通用しているものであっても、使わないほうがいいと思います。だから私は、できるだけ「勉強」という言葉を使わないようにしています。それでもやっぱり、使わないとうまく喋れないときはあるのです。歯がゆい思いをします。
誤用である以上に、「勉強」という言葉で「学ぶ」という動詞や「学習内容」という名詞の代用をすることの弊害は、そこにどうしてももともとの意味であるところの「努力をして困難に立ち向かうこと」あるいは「気が進まないことを、しかたなしにすること」の意味が残るからです。私はすべての生徒に「勉強が好きですか」という質問をするのですが、ほとんどの生徒が否定的な言葉を返すのも当然だと思っています。「気が進まないことを、しかたなくすること」が好きな人がいたら、それはやっぱり異常です。多くの子どもは、言葉の原義を無意識のうちにも感じとっているのではないかと思います。
「努力をして困難に立ち向かうこと」を抜いても学ぶべきことは存在します。努力して学ぶことも重要かもしれませんが、「努力する」ためのモチベーションには、やはりもっと純粋な喜びがあるはずだ、あるべきだと私は思います。まして、学ぶことが「気が進まないこと」であっていいはずはありません。学ぶことは好奇心を満足させることであり、好奇心は人間に本来備わった生物としての強みです。好奇心があるからこそ人間は新しい環境に素早く適応し、ここまで繁栄することができたのです。
厚かましいかもしれませんが、「勉強」とは無縁な家庭教師でいたいものだと思います。