なぜなら、表面上、たしかに成績が上がったように見えるのです。どういうことでしょう?
ほとんどの塾、そして経験の浅い(あるいは誤った考えかたをもった)家庭教師は、大量の問題を解かせることが勉強であると考えています。なぜなら成績は試験で判定されますから、試験問題が手早く正確に解けるようになることが成績向上に直結すると考えるからです。試験問題を手早く正確に解く技術を身につけるためには、とにかく訓練です。かんたんな問題からはじめ、徐々に難しい問題へと、あらゆる種類の問題を繰り返し練習すれば、その技術は身につくはずです。こうして、大量の問題を解かせることに教師は全力をあげます。いわゆる「集中力」を高め、生徒の「やる気」を出させるために、さまざまな工夫をします。そして生徒は、そのレールに乗っかって、数多くの問題を解いていくことになります。
そして実際に、これはテストの点数を上げるのです。塾に行く前と行った後で、確実にテストの点数は変化します。ご家庭も教師も、自分たちのやっていることは正しいのだと信じる根拠が生まれます。そしてこの先も同じことを続けるべきだと考えるようになります。
けれど、こうやって上がる点数は、実は一時的に得た見かけ上の成績向上でしかありません。そのことに気づかないのが、悲しむべき現状だというわけです。
どういうことでしょうか。
私が指導する生徒の多くは、既に学習塾での訓練を受けてきたベテランです。学習塾に行っているのに成績が伸びない、あるいは落ちてきてしまうから、家庭教師を依頼するのです。つまり、この時点で学習塾のやり方(つまり指定教材の問題演習に依存した指導)が効果を上げていないことがほぼ明らかです。けれど、本当に学習塾の指導が「百害あって一利なし」だと実感するのは実際に指導を始めてからなのです。
まず、理解度を確かめるために問題を解かせてみます。すると、ほとんどの生徒が目の前でスラスラと問題を解いてくれます。学習塾で訓練されていればこそです。素晴らしい!
ところが、何題か解かせていると、やっぱりまちがいます。このまちがいがどの程度の頻度で発生するかは生徒によってちがいますが、これが成績が伸びないことに反映されているのでしょう。もっとも、だれだってまちがいはするものです。単純な計算まちがいや書きまちがい、思い込みでのミスは問題ありません。ただし、そういう単純なまちがいではない、根の深いまちがいもあります。だから、まちがえてくれることが指導する側にとっては重要です。まちがいの原因を探ることで、より深い理解が得られるからです。
ということで、「どうしてここをまちがえたのか?」と原因を探り始めます。そして、驚きます。
ほとんどの生徒が、なぜまちがえたのかがわからないのです。いや、それがわかるぐらいならまちがえないという言い方もできるでしょう。そうかもしれません。そこで、まちがえた理由を説明していきます。ここではじめて明らかになるのは、実は生徒自身が、自分がなにをやっているのかを知らないという事実です。これはショッキングです。
たとえば、中学1年生の数学では、一次方程式の解き方を学びます。この解法の重要なテクニックに「移項」があり、右辺の項を左辺に移すときに符号を変えるというテクニックはほとんどの中学生は確実に身につけています。特に塾で訓練された生徒は、なんの迷いもなくこの「移項」ができます。そのこと自体は素晴らしいことです。
ところが、問題を解いていると、ときに「なぜ移行するときに符号を変えるのか」という原理が理解できないとうまく進まないときが稀にあります。あるいは、なにかの拍子でまちがえたときに、その説明をするためにはこの原理を前提にしなければならないケースがあります。そして、その原理をきちんと理解している生徒が、テクニックを身につけている生徒に比較すると非常に少ないのです。
「自分がなにをやっているのかを知らない」というのは、こういうことを指します。算数・数学の学習事項のほとんどは、テクニックです。ただし、そのテクニックの裏側には、それを支える原理が存在します。その原理の理解こそが算数・数学を学ぶ目的です。なぜ方程式の変形で答えが出るのかを理解せずに方程式が解けてもそれは無意味です。なぜ筆算で答えが出るのかを理解せずに筆算が正確にできても値打ちはありません。なぜ三角形の面積の公式に「÷2」がはいるのかを理解せずに面積が求められたってそれはわかったことにはなりません。
「無意味」だの「値打ちがない」だの言ったって、それが点数を決めるのだから、という考えかたもできるでしょう。たとえ正しい理解ができていても計算ミスで点数を失えば、成績は下がります。だからこそ大量の問題を解かせてトレーニングすれば成績が上がるのだと、実証的にそう断言することもできるでしょう。
けれど、理解がなければその上に積み上げる進歩がないのです。たとえば、かけ算はたし算です。4×3は、4という量が3つあること、つまり4を3回たすことです。このようなかけ算に対する理解がなければ、四則計算の分配法則は理解できません。分配法則が理解できなければ、中学1年で学ぶ文字式の同類項の加減法が理解できません。これが理解できなければ中学2年の文字式の展開も中学3年の因数分解も理解できず、文字式を利用した方程式や関数の理解も不十分にならざるを得ません。
それでも、トレーニングを続けることで成績を維持することはできます。分配法則は原理を理解しなくても覚えてしまえばそれでテクニックとして使うことはできますし、同類項のたし算も「係数同士をたせばいい」と覚えれば十分です(実際、ほとんどの中学生の理解はそれで止まっています)。原理を理解しなくても、テクニックは訓練で身につけられます。そして、それで点数はとれるはずです。だからこそ、学習塾は繁盛を続けます。
けれど、きちんと理解した上で積み上げていき、その上で適切なトレーニングをすることもできるのです。そうすべきなのです。
なぜなら、理解を置き去りにしてすべてをテクニックとして身につけようとする態度では、いつか学習は破綻します。本来学問はひと続きの思考過程です。正しい思考ができれば、覚えることはそれほど多くありません。ところが、これをバラバラのテクニックの集合であると捉えると、たちまち覚えなければならないことが指数関数的に増加します。たとえば中学1年で学習する正負の計算ですが、これは正の数、負の数の原理を理解すればたった2種類の計算をテクニックとして覚えるだけですべて処理できます。ところがこれを原理を理解しないままテクニックとして覚えようとすると、16種類の計算パターンを覚えなければなりません(そしてそのうちの1つをまちがって覚えると、上に書いたように「スラスラ問題が解けるけれども、たまにまちがえる。そしてその原因がまったくわからない」という困った現象が発生します)。
このように、本質を理解せずに表面上のテクニックとして学習を続けると、生徒の負担がどんどん大きくなっていきます。そして、小さなミス(たとえば16種類の正負の計算のうち1つを覚えまちがえること)が、その先になって大きな「わからない」につながります。なおわるいことに、その「わからない」を自分自身で解決することができなくなります。どこがいけないのかを発見する手だてがないからです。
学習塾は、そういう問題を抱えた生徒(実はほとんどの生徒)に対して、さらに大量の問題を解くトレーニングをさせることで対処しようとします。わかろうがわかるまいが、とにかく問題を解くことができれば成績は上がるのです。そうやって、表面上は成績がいいのに、実際には理解がうつろな生徒が生まれます。こういう生徒が成績を維持するためには、とにかく猛勉強しかありません。そして、そんな「わからない」を無視したトレーニングは、いつか破綻します。成績が急降下し、家庭教師に救いを求めることになります。
家庭教師の側からいえば、こういう生徒がいちばん厄介です。どこまで戻ってケアしなければならないかがちょっとやそっとでは見抜けないからです。そして、さらに厄介なのは、こういう生徒が頭で問題を解く姿勢を失ってしまっていることです。
テクニックで問題を解くのに、複雑な思考は不要です。もともとテクニックというのは、複雑な思考をたどらなくてもマニュアル化された手順を繰り返せば正解にたどり着くように工夫されたものです。だから、テクニックベースでのトレーニングを積むことによって、複雑な思考を飛ばしてとにかくマニュアル通りに作業を進めようとする姿勢が自然に身についてしまいます(私はこれを「手先で問題を解く」と呼んでいます)。
こういう生徒は、わからないときに「ひとつ戻って考える」という基本作業ができません。そうではなく、わからない事実を「マニュアルが与えられていない」と感じます。つまり、「この問題を解くにはどんなテクニックが必要なんですか」という姿勢になってしまいます。そしてそれをテクニックとして教えたが最後、それを覚えようとします。それが破滅に向かう道だということは傍から見ていればわかるのですが、本人にはわかりません。
結局のところ、学習塾式のトレーニングの最大の欠点は、この誤った学習態度を生徒に身につけさせてしまうことにあると私は考えています。学ぶということは、自分の頭で考え、自分で新たな世界を創造していくことです。それを否定していった先には、与えられたマニュアルを与えられたとおりに繰り返していく退屈な人生しか待っていません。
そして、悲しいことに、それが現代日本の実社会でもあるわけです。自分の頭を使って自分なりの解答を出していくことが評価される時代がやってこない限り、子どもたちの受難の時代は終わらないのかもしれませんね。