とまあ、生臭い話はさておいても、公民は実用的にも非常に価値の高い教科です。私はよく「鶴亀算や連立方程式を立てて買い物をしている人を見たことがありますか?」と生徒に質問するのですが、直接の実用価値ということでいえば、学校で学ぶことの重みは日常の暮らしに対してほとんどゼロです(それでも無価値ではないと私は信じているわけですが)。しかし公民に関しては、その多くが日常生活に直結します。人間の権利と義務に関することですからね。社会生活をしていくとき、これが正しく理解できているかどうかは、その人の幸福にはっきりと影響を与えるわけです。
そこで私は、よく生徒に「日本国民の義務は3つしかないんだよ」という話をします。権利は各種さまざま認められているのですが(ただしこれは「基本的人権」ひとつだと言ってしまうこともできますが)、義務は3つしかありません。勤労の義務、納税の義務、教育の義務、と、このぐらいは常識です。
そうでしょうか? 私は意地悪くツッコミます。「教育の義務」なのでしょうか? だったらそれはどんな義務なんでしょう? 私の質問に、正しく答えられる生徒は多くありません。「義務教育」という返答が返ってきますから、さらに「それはなに?」と追求します。ほとんどの生徒は「小学校と中学校に行かないといけないこと」と答えます。ペケです。
参考書や問題集には時に「教育の義務」と簡単に書かれていますが、正確には「教育を受けさせる義務」です。「教育を受けること」は、「権利」なんですね。「義務」ではありません。教育を受けることを望む子どもたちに教育の機会を等しく与えることが、大人に課せられた義務なのです。そして、教育というものの本来の意味からいえば、あらゆる子どもが何らかの教育を受けることを望むはずだという暗黙の前提がここにあります。教育は、突き詰めていえば好奇心から発せられた問いに対して答えを与えることです。好奇心は人間の本質的な欲求のひとつですから、だれもが教育を望み、そして社会的にそれが与えられない状態は不正であるという思想から、大人の側に「教育を受けさせる義務」が存在するのだと、これが「国民の三大義務」とされる「教育を受けさせる義務」の正しい理解です。
これが誤って子どもに理解されている(ほとんどの子どもは「義務教育を受けるのは子どもの義務だ」と信じています)のは、学校や親が登校を渋る子どもに「義務教育なんだから」とプレッシャーをかけることからきているのではないかと私は思っています。「大学や高校は勝手だけれど、小学校や中学校は義務教育なんだから絶対に行かないとダメ」という押しつけは、義務教育というものの本質を考えたときにはまったくおかしな論理だということが、考えてみればわかるはずです。
しかしここで、「じゃあ不登校はどうするんだ」という問いが発せられます。子どもにとって義務でなくとも、大人にとってその「子弟」に教育を受けさせることは義務です。もしも自分の子どもが学校に行かないとなったら、自分は義務を果たしていないことになります。無理にでも子どもに学校に行ってもらわないと、たった3つしかない「国民の義務」のひとつが果たせないことになります。だから大人は、その内容も説明せずに子どもに向かって「義務教育なんだから」と学校に送り出そうとします。
そもそも望まないひとに何かを押しつけることが「義務」であるはずはありません。子どもにとって教育は「権利」です。本来子どもは教育を望むものであり、望んだものを与えられる「権利」を持っているわけです。子どもが学校に行きたくないというのは、そこに自分の望む教育が存在しないからです。だとしたら、これは義務教育以前に、子どもの「教育を受ける権利」が奪われている状態だと考えるべきです。学校に子どもを無理やりに行かせることは、なんの解決にもならないことがわかります。子どもが本来持っている「権利」としての教育を用意することが先で、その権利が損なわれることのないようにサポートすることが大人の「義務」であると考えればいいわけです。
そういう思想であるのかどうかは知りませんが、不登校(かつては「登校拒否」とも呼ばれた)が増加を始めた1980年代頃から、「フリースクール」と呼ばれる制度外の(オルタナティブな)「学校」が現れはじめました。「義務教育」の枠の中に子どもが望む教育が用意できないのであれば、それを外側につくってしまおうということだと捉えても大きな誤りではないのではないかと思います。上記の考え方に立てば、これこそまさに子どもの「教育を受ける権利」を確保することであり、そしてそこで子どもを学ばせることは保護者にとっての「教育を受けさせる義務」を満足させるものであるはずです。
しかしながら、これはあくまで制度外の存在であるため、フリースクールに通っても「義務教育修了」の認定はありませんでした。ただし、それでは行政側も困るので、小学生・中学生に相当するフリースクール通学者や不登校者、自宅学習者(ホーム・スクーリング)は、本来通学すべきとされる学校に籍を置き、そこの担当者が学習状況を認定することによって便宜的に(場合によっては一度も通ったことのない)小中学校の卒業証書を与えることが通例になってきたようです。とはいいながら、これはあくまで便宜的な方法であり、現場の工夫と裁量にかなりの部分を依存します。苦しい辻褄合わせであったことは否めないと思います。
さて、なんでこんな一般論を門外漢である私が書いてきたかというと、そんなフリースクールの運動を続けてきた方々の尽力もあり、義務教育制度の小中学校以外の場での教育に対しても義務教育に相当する教育と認定しようという動きが実現の方向に進んでいるという報道があったからです。
このもともとの情報は、どうやらこちらのようですね。
上記の流れから見る限り、このような動きは歓迎すべきものであるように思います。本来あるべき姿にようやく行政が追いつこうとしているのだと、そう見ることもできるでしょう。かつてフリースクールを自分の息子に検討したこともある一人の親としては、大きく頷きたい気持ちです。
ところが、家庭教師という教育産業業界の端っこに位置する者としてこれを見たときに、まったく別な感想が沸き起こります。「ああ、これは教育産業にとっての新たなビジネスチャンス到来だな」という憂鬱な気持ちです。
現状でも、不登校は家庭教師業にとってひとつの重要な市場です。私自身、不登校中の生徒を教えたことも何度かありますし、少なからぬ割合の生徒が不登校を経験し(だから学習が遅れてそれを補うため)、その後に家庭教師を依頼してきています。ただし、現在の制度では、家庭教師がいくら頑張っても、それで義務教育修了ということにはなりません。あくまで義務教育の学校長が卒業を(それなりの根拠をもって)認めなければ、義務教育は修了できないのです。
ところがもし、「教育支援委員会で審査した」学習計画によって「学習内容を履修できたと」認定されるようになれば、ここに学習塾や予備校、家庭教師業の参入する大きな機会が生まれます。なにしろ受験勉強のプロであるこれらの教育産業にとって説得力のある学習計画を作成することなど朝飯前ですし、(どうせ認定は点数主義になるはずですから)、その達成を目に見える結果とすることも容易です。本当に生徒のニーズに合わせた教育機会を考えるフリースクールなどの地道な活動よりもはるかに効率的に形を整えることができるわけです。
その結果として生まれるのは、本来の意義とはまったく異なった現実です。子どもが望む教育が学校で与えられないだけでなく、その代替として選んだ場所でさらにより質のわるい教育が与えられることになるのではないかと危惧します。
そういう現実がやってきたときに、一人の家庭教師として、本来の意味での代替となる指導、子どもが本当に望む教育、人間の本質である好奇心を満たしていくことができる学習をすすめることができるよう、自戒と修行を重ねていかねばならないなと、ニュースに接してそんなふうに思ったことでした。