もちろん特殊な事情がある場合もあって、たとえば中学受験を目指す小学生が学習塾の授業についていけないためその補習をしてほしいと頼まれたことがあります。中学受験のような特殊な世界では特定の学習塾の特定のカリキュラムに乗ってしまうというのは確かにあり得る選択ではあるので、そこから外れないために家庭教師をつけようというのは決して荒唐無稽とも割り切れないとことがあります。実際、その学習塾でも家庭教師併用はごくあたりまえのこととされているようでした。そういう特殊な前提で特殊なことを求められるのであれば、まあ効果がゼロとも言えないかもしれません(もっともこのときの生徒は結局は学習塾の方を変更して併用状態を解消する方向に方針変更しました。そういうアドバイスを送れたのも、家庭教師としては正しい仕事だったと思っています)。
そういう特殊なケースを除くと、一般的に塾と家庭教師を併用するご家庭の考え方は、「勉強が足りないからもっと勉強量を増やしたい。家庭教師だけだとコストが掛かり過ぎるから、家庭教師で不足な部分を学習塾に割り振りたい」ということだろうと思います。あるいは、「この子には塾が向いているのか家庭教師が向いているのかわからないから、しばらく併用して様子を見よう」ということではないかと思います。しかし、いずれにせよ、これは無意味なことです。
なぜなら、生身の身体の生徒は一人しかいないからです。それに対して、学習塾はその時間を目一杯使うことを前提とした課題を出します。その間の時間にようやく家庭教師の指導時間を割りこませたとしても、家庭教師が力を発揮するだけの指導はできません。なぜなら、家庭教師だって宿題を出したい場合があるのだし、なによりも学習塾の勉強で疲れきっている生徒をさらにその上に奮い立たせるような芸当はできません。もしもそういうカンフル剤を使ったとしたら、余計に生徒は疲れ果ててしまうでしょう。
ここに、そういう併用をするご家庭に共通する大きな誤解があります。「成績が上がらないのは勉強の量が足りないからだ」という「勉強量=成績」とする学習観です。こういった学習観は、確かに「成績はもって生まれた能力でどうしようもない」という諦めよりははるかにマシかもしれません。けれど、そこはちがうのです。量をこなして上がる成績など、わずかなものです。そして、そこで無理矢理に確保した点数は、すぐに下がります。生涯のなかで占める意味からいえばほとんどゼロに等しいそういう学習を強化するのは、あまりにも哀しいことです。
こういった「勉強は量である」というご家庭の生徒は、だいたいにおいては同じような学習観を共有してしまっています。そして、その結果として、ほとんど考えません。問題を見ていちいち考えていたのでは、量がこなせないからです。疑問に思ったら負けです。すべての疑問を封印して、教えられたことを繰り返して「正しい方法」を身につけなければなりません。そんなときに、自分の頭で「ああでもない、こうでもない」と考えていては時間が足りないのです。
そして、考えることを拒否しては、成績は上がりっこありません。学習は、つまりは頭の使い方の練習です。社会に出たときにどんなふうに頭を使っていけばいいのかを、人畜無害な練習問題で試してみるのが学校の学習です。カリキュラムがそのように組み立てられているという現実を直視せず、思い込みだけでやっていい成果が出るはずがありません。
だいたいが、こういったご家庭の多くは、学習塾との併用を教えてくれません。なぜか隠すのです。これもまた、効率を下げます。なぜなら、そこに重複が多くなり、ただでさえ時間が足りないのに、その足りない時間を補うことを阻害してしまうからです。
もちろん、塾との併用であることを前提にしてきちんと教えてくれるご家庭もあることはあります。けれど、家庭教師の側は併用を前提に指導計画を立てられますが、学習塾の側でそれに合わせてくれることはあり得ません。結果として家庭教師は学習塾の補習をすることになり、それは塾の成績を上げることになるかもしれませんが、肝心要の学校の成績は上げてくれません。
そんなこんなの苦闘の果てに、残るのは疲れきった生徒だけです。もちろん、頭をフル回転させなければいけない学習のためには、疲労は最大の敵です。ぐったりと生気のない生徒に対して、「さあ、しっかりこれを考えてください」などと言えるわけはないではないですか。
家庭教師の立場としては、学習塾なんかやめて、全面的に自分に任せてくれといいたいところです。もしもそれが無理なら、せめて学習塾一本に絞るべきでしょう。何よりも避けるべきは、過重な負荷を子どもたちにかけることです。それだけはやめてほしいと、つくづく思います。