たいていの人は、病気になれば医者に行きます。そして医者に処置・処方をしてもらい、しばらくして元気になります。「先生のおかげでよくなりました!」素直に医学の効能を信じるでしょう。
しかし、疑い深い人はこう言います。「結局は安静にしていたから回復したんじゃないの、薬の効果じゃなくて」「放っておいても日にち薬でなおったんだよ」「もしもあの医者にかからなかったら、もっと早く良くなっていたんじゃいないのか」などと。
そして、治療を受けたのによくならなかった場合、お人好し以外は不満を漏らします。「あの医者は役立たずだ」「変なことをされて余計に悪くなった」「医者に殺された!」などなど。
しかし、医者の側にも言い分はあります。「もしもあそこで治療をしていなかったら、もっと悪化していたはずだ。それをあの程度で食い止めたのは適切な治療をしたからだ」「あそこまで悪化していたら、だれだって手のうちようがない。それを医者のせいにされても困る」など、いずれも正当な理由です。
つまり、治療の効果を検証することは、一般に非常に困難なのです。これを科学的にやろうと思ったら、治療を施したグループと施さなかったグループを分けて疫学調査を行わなければなりません。実際に、新薬の効能などを調べる場合には、統計的な治験が必須となっています。しかし、たとえば風邪のときに解熱剤を飲んだほうがいいのか、発熱を促進する漢方薬を飲んだほうがいいのかなど、ごくあたりまえの疑問に対してでさえ、疫学的な調査はほぼ不可能です。「この薬を飲めば血圧が下がる」「この処置をしておけば化膿はしない」「この薬で水虫は消える」などなど、ひとつひとつの手段については効果がはっきりしているものも少なくありませんが、それが全体として健康にどのように影響しているのかはいまひとつわかりません。最も説得力のある根拠は死亡率の低下とそれに伴う平均寿命の増加でしょうが、これに関しては医学の寄与以上に栄養状態と衛生の向上が大きいとする研究もあります。本当に医者が役に立つのかどうか、確実な根拠はないと言っていいのかもしれません。
家庭教師も同様に、根拠をもってその効能を説くことができません。「先生のおかげで成績が上がりました!」と喜んでもらえる場合であっても、実際には家庭教師なんてつけなくったって生徒自身の能力と努力で成績は上がったのかもしれません。「高い金を払って家庭教師をつけたのに成績が下がった!」というのが家庭教師に対する不満のトップであるわけですが、教える側から言わせてもらえば「どうにかこうにかここで下げ止まったのは家庭教師ががんばったからだ。放っておいたらもっと下がっていたはずだ」と、そんな不満はとんでもないことだとなるわけです。「成績なんて一朝一夕に上がるもんじゃないよ。この先の2年、3年を見てくれたら、いまやってることの重要性がわかってくれるのに」と悔しい気持ちになる場合もあります。しかし、そのどちらの言い分も、検証することはできません。たとえ「家庭教師をつけた生徒」と「家庭教師をつけなかった生徒」の2グループをつくって追跡調査したとしても、もともと生徒の素質や個性はひとりひとり違うし、勉強に対する取り組みもそれぞれのグループ内で多様過ぎるのですから、なんらかの説得力のある結果を出すのは容易ではありません。だいいち、そんな実験のために自分の家の子どもを提供するご家庭はまずないでしょう。
ということで、医学の力、家庭教師の効果に関しては、「これがきっと効くはずだ」というサービスの提供側と受け手の双方に共通する思い込みが存在するに過ぎません。そして家庭教師というサービス提供者としては、実はそれで十分だと思うのです。「効果があるはずだ」と双方が信じていれば、その結果がどうであれ、双方に悔いはないはずです。やるべきことをやったという確信があれば、それでいいのだと思います。
ただ、双方の思い込みにズレがある場合、決してめでたしめでたしとはなりません。最初っから信用していなければかえって問題は少ないのですが、クライアント側の思い込みとサービス提供側の思い込みがある程度重なり、そして微妙にズレている場合、問題がややこしくなります。
中学1年生から指導を続けてきた中3生がいます。1年生で担当したとき、成績はずいぶんと思わしくないものでした。ところが彼女は真面目な勉強家です。なぜこんなにテストの成績が低いのか、だれにもわからず、家庭教師が依頼されたわけです。しばらく指導を続けて、私にはどうやら彼女の「勉強」こそが成績を悪化させている真犯人だろうと見当をつけました。大量の問題集を解くことそのものが自己目的化してしまい、そこで説かれている学習内容に全く関心がなくなってしまっていたのです。真面目に勉強さえしていればだれもが褒めてくれますからね。勉強をしたという事実さえ確保できたら、中身がわかろうがわかるまいが、どうでもいいわけです。
けれど、それでは成績は上がりません。だから私は、彼女にはドリル系の宿題は一切出さないようにしました。そして、中1から中2にかけて、成績はほとんど上がりませんでした。その間、もっぱら読書や作文の課題を中心にやってきたのですから、まあ無理もないことです。けれど、そういう指導を続けたおかげで、中2の終わり頃から徐々に成績が上がり始めました。そして中3になり、高校入試を目標に以前は避けていたドリル系の宿題も徐々に導入しながら、計画を進めているところです。
私としては、この2年余り、「うまく引っぱってきたなあ」と思うのです。ところが、ご家庭の側には大いなる不満が蓄積しています。なるほど、私の指導はよかったのかもしれません。けれど、もしも私がこの2年の間にもっと大量の宿題を出していたらもっと成績が上がったはずではないのかと、そんな後悔が拭えないようなのです。だからいよいよ勝負どころの夏休みを前に、「もっとしっかり宿題を出してください」という要求がつきつけられます。下手に出したら以前のような形だけを整える事態が再発しかねないと、私としてはヒヤヒヤします。けれどその思いは伝わりません。双方の思い込みが重要な点ではっきりとズレているからです。
このままいけば「生ぬるい指導をされたおかげで志望校を下げなければいけなかった」と非難されるのは目に見えています。どうにかしなければいけないなあと思うのですが、なかなか説得力のある説明はできません。なぜなら、医者にせよ、家庭教師にせよ、「こうやったら、こうなる」という単純な因果関係では説明できないものを扱っているからです。人間というのは複雑な有機体であり、ひとつの作用がどのような反作用を生むのか、容易に予測できるものではないのです。
「頭の良くなる薬」のようなものはありません。「これさえやっていれば成績が上がる」みたいな方法も存在しません。そして、そういう単純な解決策がないからこそ、家庭教師という仕事が成り立つのだと私は思うのですけれど……。