本当は、この考え方をさらに進めてもいいのです。たとえウソをついているとしても、生徒の言葉はまず信用してかかるべきです。なぜなら、教師と生徒の関係において、言葉の裏側に意味を含ませる必要など何もないし、下手にそういう言外の意味を探るコミュニケーションを成り立たせてしまえば、それはどんどんおかしな方向に走りかねないからです。
それを痛切に感じたのは、こんなWeb上の記事を読んだときでした。
9割の親がついやってしまう! 子どもが「ひねくれて」しまうNG行動とは?
この記事の筆者はどうやら学習塾の教師らしいのですが、記事を引用すると、
- 例えば算数の授業の中で、私が「中学へ行くと、整数でも小数でも分数でもない、まったく新しい『ルート』っていうのを使うんだよ」と言うと、何にでも興味を示す子は「それってどんな数字?」「どうやって使うの?」などの反応を示します。
一方、何でもちゃかしたいタイプの子は「それって入試に出るんですか?」「今、教わらなくてもいいんじゃないですか?」と少しふざけて言うことで、先生の揚げ足を取ろうとします。そして、そんなツッコミに周囲が笑う、という展開です。
と自分の体験を述べた上で、「何か言うとすぐに「ちゃかす子」と、いろいろなことに興味を示す「素直な子」」に生徒を二分します。そして、「素直な子」こそが「ぐんぐん成長していく」のだと、自説を展開するわけです。
根本的にこの先生はダメだなあと思います。というのは、生徒の質問にまっすぐ答えないからです。自分が想定していない質問(「それって入試に出るんですか?」)に対して答えようとせず、それを「ちゃかしている」と断定し、排除しているわけです。「今、教わらなくてもいいんじゃないですか?」という質問ぐらい、まっすぐに答えるのがどれほどの手間でしょうか。それを「揚げ足を取」られるのを怖れて回避するわけです。そして、その責任を生徒に押し付けます。
さらに、それ以上にわるいことがあります。それは、そういった質問に否定的な姿勢を示すことで、生徒の正しい成長を阻んでしまうことです。
どういうことでしょうか? 生徒の身になって考えてみましょう。先生に質問したときに、質問の種類によって先生が喜んで答えてくれる場合と不機嫌になって黙りこんだり話題を変えたりするすることがあると生徒が認識した時点で、生徒は世の中にはいい質問とわるい質問があるのだと解釈するようになります。そして、そして、「素直な子」であれば、できるだけ先生の機嫌がいい質問をしようと思うようになります。そして先生が想定していないような質問、つまり教師が授業に関係ないと思い込んでいる質問、たとえば「そんなことを勉強する意味があるのか?」みたいな質問は、たとえ心のなかに浮かんでも決して表に出さないようにします。まして先の記事の筆者は、「話をおかしな方向に持っていったりする発言については徹底的に注意し、厳しく叱ります」と言います。叱責されることで、生徒は教師の想定した道筋から離れた質問はできなくなります。
けれど実は、教師が想定していない質問こそが、本当に重要なのです。それこそが人間を成長させていく原動力です。確かに教師としては、たとえば因数分解を教えようとしているときに「それって何か意味があるの?」みたいなことを言われると面食らったりムッとしたりするものです。けれど、生徒は純粋にそれを知りたいのかもしれません。因数分解は、式の展開の逆方向の演算です。これまで「カッコを外せ」と訓練されてきた生徒が、いきなり「カッコにまとめなさい」と言われるわけですから、「いままでのことは何なの?」「おかしいじゃない?」と感じたって、それはそれであり得る話です。百歩譲ってそれが単に「ちゃかす」ことだけが目的であったとしても、正面切って真面目に答えられたら、ちゃかすほうは一気にしらけてしまいます。そしてたいていは、「ちゃかす子」であっても、その奥底には純粋な疑問が出発点としてあるものです。揚げ足を取る式の疑問でも、やはり疑問点を見つけ出しているのです。
そして、疑問を感じる能力こそが、実は学問にとって最大の武器です。その疑問は、教師が想定できる範囲を超えているのが当然です。全ての質問を予想できるほど偉大な教師などいません。ただし教師は、その質問に対して何らかの返答をし、生徒の疑問を解消する手助けはできます。そうやって疑問を解決する道筋こそが、本当の意味での学問です。そういった学問を通じて人間を成長させることこそが、教師に委ねられた仕事です。その本来の仕事を入り口で回避してはならないはずです。
「ちゃかす子」として叱責された子どもは、どうなるでしょう? 「それは勉強とは関係がない」「おかしな方向だ」と決めつけられたら、自由に頭を働かせることができなくなります。そして、「自分の疑問はどうせ勉強とは関係がないのだから」と、それをまっすぐに解決する意欲を失います。だからこそ、成長しないのです。一方、「素直な子」はどうかというと、枠組みから外れた疑問を抑えつけるようになりますから、枠組みのなかでは伸びていくことが可能です。けれど、いったん枠組みから外れたら、どうしていいかわからなくなります。学校の成績は悪くないのに実社会に出て役に立たないといわれる昨今の若者は、こんなふうにしてつくられるのかもしれません。
一見勉強とは関係のないような疑問でも、すべては学問につながっています。なぜなら学問は人間社会や自然界に起こる全ての現象を対象にしているからです。その学問につながっていくのが義務教育から高校にかけての勉強なのですから、どんな疑問でも否定してはいけません。
むしろ、「何でこの勉強をしているんだろう?」「これをやることに何の意味があるのだろう?」という根本的な疑問を解消しないままずるずる勉強を続けることは、非常に危ういことです。すべて勉強は、大きな流れをつかみ、全体像を把握した上で、細部に進んでいくべきです。そういうことを理解せずに生徒を責め続ける教師は哀れなものだと思うこの頃です。