どんな生徒でも、初対面からいきなり問題を解くような「勉強」をすることはありません。最初の時間はガイダンスと決めています。それは、どんな方向を向かって何をしていくのか、認識を生徒とすりあわせておかなければ何もできないからです。このことの重要性は、あちこちで何度も書いています。そして、そういった確認は、節目ごとに必要となります。たとえば一人の生徒は高2の春に数学が一段落したので方向を確認する必要が生じました。新中3生は、ここから1年間の受験勉強をどうするのかということを話し合いました。別の生徒は、高校に合格し、これまでの受験勉強からは仕切り直しということで、この先のことを話しました。
そういった一連の話を通して、改めて感じたのは、学習を進める方向性といっても、大別して2通りの考え方があるんだなあということです。どういうことでしょうか? (ちなみに、方向性も決めずにただ「がんばれ」「これをやらねばならない」「点数を上げよう」みたいに「勉強」を組み立てるのは論外です)。
まず、よく言われるのが「目標を決めて、それに向かって積み重ねていく」という方向性の決め方です。たとえば、国際的な企業に就職したいから英語をがんばるとか、医者になりたいから偏差値を上げたいとか、そういったあり方です。実は、こういう具体的な「目標」は、家庭教師に限らず指導者にとっては非常にやりやすいものです。なにせゴールが見えていますから、それに向かって中間目標を立てそれらのマイルストーンをひとつひとつ踏めるように毎日の学習計画までブレイクダウンしていけば、ほぼ失敗はありません。もちろん、生徒の能力の問題はあります。しかし、能力が低ければそれを高めるための計画を立てるのが家庭教師であり、それが実行できさえすれば目標はたいてい達成できます。能力によっては計画が過重になることはあって、そういう場合は実施前に「無理」という判断が生徒の方でできるので、目標を変更することになります。いずれにせよ、こういうゴール指向の姿勢は指導する側にとっては仕事がしやすいので、そのせいでどうしても教師はこういう姿勢こそが正しいのだと思いこんでしまいます。いえ、それは単なる自己都合ですから。
現実には、多くの生徒が目標を決められません。それを「ダメだ」と糾弾するのは教える側が「オレの仕事をやりにくくするな」と文句をつけているだけのことです。遠い目標がない生徒には、それにふさわしい方向性のつけ方があるものです。それが、もうひとつのあり方だと思うわけです。
目標がはっきりしないとき、何よりも重要なのは「好きなこと」をすることです。こういうことを言うと、必ず「そんなに好きなこととかないし」みたいなことを言う生徒が現れます。なにも、命をかけるほど好きなことを挙げろと言っているわけではありません。「こっちのほうが楽しい」とか、「ちょっとおもしろいとおもえるかな」とか、その程度でかまわないわけです。「勉強でそんなふうに思えるものなんてない」というのはもっともなことです。勉強でなくてもかまいません。日常生活の中からでも遊びの中からでも、少しでも興味のもてるものを探し出します。そういうものは必ずあるはずです。そして、そんな糸口が見つかったら、そこからスタートするわけです。
こういうことを言うと、「勉強もせずにゲームばっかり」という状態がおとずれるのではないかと心配になるかもしれません。たいていの生徒は、息抜きの時間つぶしと自分の興味関心を区別できるだけの分別は持っています。もしもそれが区別できないようであれば、それはよっぽど強いストレスにさらされているなど、別な方面の問題をまず解決しなければならず、ちょっとここでの話題から外れてしまいます。そういうことさえなければ、「好きなこと」と言われてゲームしか出てこない、あるいはゲームから発展させられないというようなことは考えにくいものです。
ともかくも、好きなことからスタートしていけば、必ずどこかで学ばねばならないことにぶつかります。そこから広げていけば、学習活動に支障はありません。始めのうちはずいぶんと偏った学習にもなりますが、それでかまいません。ひとつのことがわかれば、次のことにも進みやすいものです。全てを同時に進める必要など、まったくないのです。
興味関心を広げていく学習方法は、遠い目標をもってそこに進んでいく方法に比べて、効率がわるいように見えます。時には回り道や無駄足を踏むように思えることもあります。しかし、ふつう、現在地点から未来を見通したとき、そこはぼんやりしているものです。ところが未来に到達して過去を振り返ると、どういうわけだかそこには一筋の真っ直ぐな道が見えます。すべての無駄や回り道が、必然に見えてくるものです。
そんなふうに、結果的に真っ直ぐな道筋ができていく方法として、いま目標の見えない生徒には、好きなことをすることを奨めています。それを続けることで、そのうちに、見えなかった目標が見えてくることもまた、よくある話なのです。