先日、あるプロの家庭教師から直接聞いたことです。「生徒とのコミュニケーションをどうとるか」というテーマでした。彼によれば、その極意は生徒の趣味を把握することです。スポーツやアニメやゲームなど、どこかに生徒が心から惹かれているものがあるはずだから、それを見つけて、その話題から切り込めば、勉強に「やる気がない」生徒でも心を開いてくれるものだ、という内容でした。
それはそうなのかもしれないなあと思って聞いていたのですが、その家庭教師が「どうにか生徒と打ち解けて話をすることができるようにはなったんですが、問題はゲームの話でほとんどの時間が潰れてしまうことですね」と平然と言ったことです。つまり、彼は指導時間の大半を生徒とゲームの話をしているのです。そして、「生徒とのコミュニケーションがうまくいっている」と自己評価しているわけです。
家庭教師を依頼しているご家庭からすれば、これはあり得ない話ではないでしょうか。ゲームの話を1時間してもらうだけなら、高い家庭教師代を支払う必要はありません。ゲーム好きの友だちでも呼んでこさせればいいのです。ゲームに気持ちが向いている時間を勉強に振り向けてもらいたいから、家庭教師を依頼しているのでしょう。何をたわけたことを、と感じられるのが当然だと思います。
もちろん、家庭教師の側にも言い分はあります。生徒の心を勉強に向けるには、まずは生徒との信頼関係を築かなければなりません。信頼関係を築くためのコミュニケーションを確立するには、生徒の趣味に合わせた話題がいちばんです。そうやって生徒と「心を通わせ」れば、「ちょっと勉強しようや」という誘いかけもしやすくなる、というような理屈です。
アウト、だと思います。なぜなら、生徒は「家庭教師を依頼する」ということを了承した時点で、既にいくばくかは、「勉強しないとな」と思っているものだからです。私がこれまでに出会った生徒で、最初っから勉強に背を向けているような生徒は皆無でした。たとえどれほど学校の成績が悪かろうと、いいえ、学校の成績が悪ければわるいほど、「なんとかしてほしい」と家庭教師に救いを求めているわけです。だから、何も改めて「生徒の信頼」など勝ち得なくとも、勉強を進めることはできるのです。
ではなぜ、「生徒の信頼」がなければ、生徒と「心を通わせ」なければ勉強を進められないと思い込むのでしょう。それは、はっきり言ってつまらない勉強をするからです。「なんとかしてほしい」とすがった当の家庭教師が学校や塾の教師と大差ないことをするとしたらどうでしょう。相変わらず自分に理解できないことや退屈極まりないことしかしてくれなければどうでしょう。だれだって勉強なんか、嫌になります。「やっぱりこいつダメだ」と思うはずです。そうなったら、改めて、どんな手段を使ってでも「ああ、こいつでも役に立つかもしれないな」という「信頼」を築きあげる必要が生じます。そのために、本来ならしなくてもいい「コミュニケーションの確立」をあらためて行い、生徒と「心を通わせ」なければならなくなります。そのために、貴重な時間を潰して、何の役にも立たないゲームやアニメ、アイドルなんかの話をしなければならないわけです。これが生徒への迎合でなくてなんでしょう。
生徒の心が勉強からはなれるのは、ひとえに勉強がつまらないからです。勉強がつまらない理由は、いろいろあるでしょう。「なぜ勉強をしなければならないのかわからない」という根本的な問いから、「よくのみこめない」という教科内容にかかわるもの、「めんどうくさい」という感覚的なものまで、無数の理由が生徒を勉強から遠ざけます。そのひとつひとつを生徒とともに吟味し、ひとつひとつをていねいに潰していくことでしか、勉強のつまらなさは解決しません。その作業自体はけっこう面白いもので、生徒の注意力がそこからそがれることはありません。そして問題が全て潰れてしまえば、そのときには以前よりもずっと学力の高い生徒が生まれているわけです。つまり、問題を潰していくことそのものが勉強なのです。これが学習指導の基本です。
なぜ教えることの基本をさておいて「生徒とのコミュニケーションを確立する」というような瑣末な技巧にはしるのか、私には理解できません。私にはそういった生徒への迎合をすることができません。それを「その能力がないからだ」と言われてしまえばそれまでなのかもしれませんが……。