こういう結果に接するたびに思うのは、きちんと手順を踏んで準備すれば、たいていのことは実現できるという単純な事実です。もちろん、どう転んでも不可能なことはあります。時間が足りない、能力が足りないという事態は、いくらでも発生します。けれど、最初から不可能だとわかっている場合は、スタート前にストップをかけます。「この目標にはこういう手順を踏んでこういう準備を進めていけばこういう結果が出る」と判断できたものについては、あとはその手順がきっちりと踏めたかどうかだけの問題です。つまり、問題は「やるのかやらないのか」。と、ここまで書いたことを読んで、「結局、本人のやる気でしょ」と思った人がいるのではないかと思います。そこが実は、ちがうのです。
私たちはあまりにも「がんばればできる」という神話に縛られています。そして、「がんばりが足りないのはやる気がないからだ」という「やる気」神話も相当に根深いものがあります。「やる気スイッチ」さえ押せば、自動的にあとは「がんばり」が続くように思っている人まではさすがにいないでしょうが、「この子はやる気がないから」と家庭教師にこぼすご家庭はけっこう多いのです。
「やる気」って、なんでしょうね? それは、行動を起こすかどうかの判断です。人間は、けっこうしっかりと判断をしてから行動する生物です。もしも「わかっているけどやらない」という状態があれば、それは、実は「必要だと思えないからやらない」とほぼイコールなわけです。
では、その判断の根拠になっているのは何かといえば、まず第一には、目標がまちがっている、ということです。あらゆる努力はすべて何らかの目的・目標を達成するために行われます。目的・目標がないのにやることは「好きでやってること」ですから、「努力」には当てはまりません。そして、その目的・目標が正しく認識されていなければ、当然ながら努力しようというモチベーションは生まれません。たとえば行きたいのか行きたくないのかもよくわからない高校を「志望校」として決定しても、「ダメなら別にそれでもいいや」という気持ちがどこかに入ってきます。ほんのわずかでもそういう気持ちがあれば、ちょっとしたきっかけで前に進めなくなります。
もうひとつは、そもそも努力の必要性が十分に理解されていないケースです。そしてこれは、「とにかくがんばれ」「がんばれば結果はついてくる」式の、具体性を欠いた指示をすることで多発します。そういう指示を出すと、およそ実現性のない無謀な計画(たとえば1日に6時間の勉強とか、問題集を端から端までぜんぶ解くとか)を立てて、そして自滅します。声援を送る側としたらオーバースペックなぐらいに勉強してもらったほうが安心するのですが、そういう計画を立てると、「ちょっとぐらい息抜きをしてもいいんじゃないの」という考えが入り込みます。そして、「ちょっと」というのがどの程度なのか、具体的な基準がありませんから、いくらでも遊んでしまうことになるわけです。
重要なのは、目標をしっかり定めることと、そこに向かって合理的な計画を立てることです。そして、これは口でいうほど簡単ではありません。特に中学生・高校生の思春期は、将来についてあれこれと悩むものです。親の感じる「いい高校」をすんなりと自分の将来像に当てはめて考えられる生徒のほうがむしろ異常です。「いったい自分は何をしたいのだろう?」と悩んでいる人に、「将来のことを考えて目標を決めましょう」といっても無理というものです。
そして、努力することの必要性を理解してもらうのも、またむずかしいことです。できるだけ具体的に、「この練習をやったらこれだけ点数が上がる。その点数がなければ合格ラインには届かない」というようなはっきりした因果関係を納得してもらわない限り、モチベーションは生まれません。
そんなふうに考えたら、結局は、「やる気」とか「がんばり」という言葉が虚しいのだということがよくわかってきます。「やる気」という言葉には、「やる」ことが無条件に必要であり、善であるという思い込みがあります。けれど、それは目標に向かってどれだけ進めなければならないのかという具体性を伴わなければ、説得力を持ちません。「がんばり」にも、「がんばる姿こそ尊い」という価値観が含まれます。けれどこれは、目標を達成するためにがんばらなければならない場合にのみ有効な方便に過ぎません。がんばらなくても目標が達成できるときにがんばるのは、はっきりいってエネルギーの無駄でしかありません。
きちんと目標を立て、そこへ向かった具体的なステップが準備できたら、たいていのことは実現できるのです。そのことを伝えるためには、この壮大な無駄に見える受験競争も、ひょっとしたら利用価値があるのかもしれませんね。