たとえば、「学習習慣をつけてほしい」というのは、けっこうご家庭側からの要望としてあります。けれど、「学習習慣」って何なのでしょう? 勉強は必要があるからやるもんです。必要もないのに習慣としてやるのは、百害あって一利なしです。冷静に考えたらそのぐらいは誰だってわかるはずです。けれど、ほとんどの人が「勉強する習慣」を重視します。それは、学校の教師をはじめとして、多くの人々がそういうロクでもないことを吹聴するからです。そりゃ、学校の教師としては、いちいち指図しなくても習慣として勉強してくれれば楽でしょう。自分が楽をするために学問の本質を捻じ曲げていることに気がついてほしいものだと思います。
生徒の側からの要望で多いのは、「勉強のしかたを教えてほしい」というものです。これもまた、外部からの影響だと思います。というのは、学習塾や家庭教師の宣伝文句に、「勉強のしかたを教えます!」というのがよく使われているからです。「勉強を教えます」ではなく、「しかたを教えます」というのは、たしかに正しいように思えます。よく国際援助でいわれる「モノを支援するのではなく、モノを産み出す仕組みを支援するべきだ」みたいな議論と似たようなものかもしれません。一過性のものよりも、長く続くものを与えるほうが正しいというのは、ある意味、正論でしょう。
ただ、生徒の頭の中に「勉強を教えること」と「勉強のしかたを教えること」が、どのようにイメージされているのかを考えると、この要望、真に受けていいものかなあと思います。最近、それを感じることがありました。同僚の持っている生徒にピンチヒッターで教えに入ったときのことです。
「理科を教えてほしい」というので、どの分野かを確認すると、「化学反応のところ」というので、中学2年生で学ぶ化学反応の量的関係のところを復習しました。化学変化の意味や原子の考え方の基礎に戻ってチェックしていくと、理解は非常にしっかりしています。ところどころあやふやなところもありますが、ちょっと修正するとすぐにきっちりと反応してきます。ああ、これなら安心だと、いよいよハイライトである質量比の問題にかかりました。
まず、質量保存の法則です。「銅4グラムが酸素と完全に反応して、酸化銅5グラムができました。酸素何グラムが反応しましたか?」というやつです。答えはかんたんで、差をとればいいのですね。1グラムです。それが答えられることを確認して、次に、「銅を8グラムにしました。何グラムの酸素と化合しますか?」と尋ねます。一瞬で答えが返ってきました。2グラムです。物質が化合するときの質量比が常に一定になるという関係を、しっかりつかんでいます。つまり、この範囲の学習内容はほぼ完璧に理解しています。嬉しくなりました。
そこで仕上げに、問題集の問題です。おそらく、過去の入試問題から改変したものでしょう。実に一般的な、よくあるタイプの問題です。表に「銅粉の質量」と「黒い粉の質量」(つまり酸化銅の質量)が示してあります。たとえば、銅0.4グラムのときに酸化銅0.5グラムが得られることなどが、この表から読み取れます。そして、「銅2.0グラムのときに何グラムの酸素が結びつきますか?」との質問。これは、準備段階でやった質問と、数値がちがうだけで完全に同じです。
ところが、先程の問答で一瞬のうちに答えられた同じ生徒が、この問題で悩むのです。そして、「わかりません」。そんな訳はないだろう、さっきやったのと同じじゃないかと指摘したときの返答に愕然としました。「解き方を覚えていないので、解けません」
彼の勉強に対するイメージが、このとき初めてわかりました。彼にとっての勉強とは、問題の解き方を覚えることなのです。そして、口頭で「銅4グラムを8グラムに増やしたらどうなる?」と尋ねられることと、印刷された問題を解くことは、まったく別次元のことなのでしょう。だから、学習内容を本質的に理解しているのに、「覚えていない問題は解けない」と、最初から考えることを放棄してしまっているわけです。
そして、「勉強のしかたを教えてほしい」とすがるような目で家庭教師をみていた多くの生徒たちのことを思い出しました。彼らにとって、「勉強を教える」のは、つまり、「問題の答えを教える」ことであり、「勉強のしかたを教える」のは、「問題の解法パターンを教える」ことだったのです。「勉強の方法」とは、つまり「問題の解き方」だと、そういうイメージをもっていた生徒が少なくなかったことを思い出しました。それはちがうのです。
「勉強のしかた」とは、考えることです。どんなものをみてもそれに疑問をおぼえ、論理の破綻を見つけ、正しく批判する道筋を見つけることです。そして、批判の中から正しい答えを発見することです。つまりは、頭を使う方法こそが、「勉強のしかた」です。
私はそれを生徒に見つけさせようとしているつもりです。だから、しばらく教えていると、生徒は「勉強のしかたを教えてほしい」みたいなことは言わなくなります。私も、そこにイメージのちがいがあったことを忘れてしまいます。スポットで入った生徒だから、それを実感させられました。
「勉強のしかたを教える」ことは、そこらのチラシに書いてあるほどかんたんなことではありません。そして、多くの学習塾や家庭教師は、言葉とは裏腹に、それを教えられません。「計画表をつくる」とか、「問題集を順番に解く」とか、「英単語は暗記する」とか、そういう方法論も、「勉強のしかた」ではありません。学ぶための唯一の方法は、頭の芯が痛くなるほど考え込むこと。その材料をうまく与えることが家庭教師の役割だと思っています。