この生徒を受け持ったとき、ちょうど試験が終わったところだったので、テスト結果を点検しました。あまり点がとれていません。だからこそ家庭教師が必要というのはよくわかります。改善すべき点、課題は山積みです。けれど、詳細に見ていくと、なによりもまず国語力に問題があるのだということが明らかになってきました。教科を問わず、記述式の問題にはひとつも答えられていません。記述式でない問題でも、問題文が少し長いものは答えられていません。つまり、文章を書く能力も読む能力も不足しているわけです。
こういう生徒にはなによりも論理的に読む、論理的に書く練習をさせねばなりません。それはいわゆる問題演習では身につきません。順番としては「書く」ほうからはじめるのがいいでしょう。これは年少児の国語指導とは順番がちがいます。日本語を初めて身につけるときには、「話す」「聞く」「読む」「書く」の順番に指導します。学校に行く年齢までには、概ねこれらの基礎的な能力は日常生活の中で(あるいは幼稚園の教育などを通して)ある程度培われています。ですから小学校では全てを並行して進めます。しかし、小学校では案外と論理的な文章力については突っ込んだ指導はしないようです。そしてこれは、日常的な国語能力とはひとつ次元がちがうものです。これを読書習慣などを通じて(あるいは天性の才能で)身につけている生徒は大丈夫です。しかし、そうでない生徒には、改めて指導したほうがいいように感じています。そしてこの指導は、「書く」ことからはじめます。
指導方法を詳しく書くのは別の機会に譲るとして、まず第一歩は目の前にあるものを文章化する訓練です。たとえば、「机の上に何があるか書いてください」と頼みます。当然ながら、生徒の机の前には少なくとも鉛筆と紙はあるはずです。「鉛筆と紙があります。」と書ければ、まず第一歩が踏み出せたことになります。主語と述語を備えた最低限の論理的な文章だからです。ここにさらに、その鉛筆の状態であるとか本数、紙と鉛筆の位置関係などを観察によって書かせていき、できあがった文の構成要素を文法的に理解し、その相互関係を考察していけば、それだけで文章と論理に関する1時間の練習が完成していくわけです。
もちろん、出題方法はこれだけではありません。比較的かんたんなのは、写真を1枚見せ、「ここに何が写っているか書いてください」と頼むことです。同じように、写っている事物を列挙することからはじめ、それを修飾し、関連づけていくことを学ぶことができます。
このような基礎練習は、なかなか得点に結びつきません。けれど、「イメージを文章化する」ことができなければ、記述問題の解答を書くことはできないはずです。だから、我慢してこここからはじめるわけです。
この生徒も、そんなふうにはじめました。そして、驚かされました。彼は、最初の第一歩を踏み出すことさえできなかったのです。
どういうことでしょう? たしかに、なかなか書き始められない生徒は少なくありません。こういった練習に慣れていないせいです。印刷された練習問題を解く訓練は受けていても、自分で考えて文を書く訓練は受けていないものです。けれど、多くの生徒は、少し手助けしてやるときちんと書きはじめます。それだけの能力はもっているのです。
ところが彼は、しばらく手助けした後に、驚くべき文を書きました。いえ、それは文ではありません。具体的にそのときどんな写真を見せていたのか、どんな文を彼が書いたのかはもう覚えていませんから、上記の机の例に置き換えて説明しましょう。彼が書いたのは、「鉛筆と紙があること。」という「解答」だったのです。
どういうことでしょう? 「何がありますか」と聞かれたら、「〜があります」とか「〜です」と答えるのが日本語です。それが論理的な受け答えですね。けれど彼は、「〜すること」という形式を選びました。そしてこれが、現代の「勉強」の絶望的なところなのです。
一般に国語の答案では(あるいは理科や社会の答案でも)、「○○は何か」という設問に対しては、必ず体言で答えるという不文律があります。これは不文律というよりも、「何か?」という問いかけにはその具体的な「何」で答えるべきであり、つまりは体言を提示すべきだという論理の要請であるわけです。ですから、たとえば理科で「燃焼とは何か?」という問いがあったら「物質と酸素が化合して熱や光を発生する」と書いたのでは正解にならないわけです。「物質と酸素が化合して熱や光を発生すること」と、「こと」をつけなければ正解ではありません。これはこれで論理的な話です。
ところが、これが論理の帰結としてそうなるのだということを生徒に理解させる努力をほとんどの学校や塾ではしていないように思えます。そうではなく、「こと」をつけないと正解ではない、解答は「こと」や「もの」で終わる形式で書かねばならないと、形式主義的に生徒を訓練しようとしているようです。
その結果が、この中学生です。彼は、「勉強」で書くものは全て「こと」や「もの」で終わらなければならないと思いこんでいるのです。これが、長年塾に通った巨大な弊害であることは、説明するまでもないでしょう。ここで、「無理に『こと』や『もの』を使わなくてもいいんだよ」と言ったところで、彼は混乱するだけでしょう。なぜなら、その理由がわからないからです。文というのは全て論理的にできていて、論理の要請によって表現を変化させていかねばならないということをまず理解させねばならないのに、その第一歩を踏み出すことを誤った思い込みが阻害しているからです。
私は、塾を否定するものではありません。けれど、塾での教育がこのような巨大な害を生み出す可能性をもっていることは、同様に否定できない事実です。「それは誤解する生徒がわるい」というのでは、何のための塾なのかということになってしまいます。
結局、この生徒には十分な指導ができませんでした。彼は別の道を選びました。おそらくその方向では、さらに訓練を積み重ねて、どこかで「解答」は書けるようになるのでしょう。「こと」や「もの」をつけて、○をもらうことはできるようになるのでしょう。けれど、それで伸びる点数はたかが知れています。本当に学力を伸ばしていくためには、自分自身で目の前にあるものを説明するぐらいの能力は最低限でも必要です。彼にはその力を身につけるチャンスがあります。ただ、巨大な既存の「勉強」のイメージがおそらくそれを阻んでしまうでしょう。
生徒に国語指導をしながら、ときどき彼のことを思い出します。何のために勉強しているのか、その意義がほとんどないではないかと、哀しくなります。いくら勉強しても、点数は頭打ちになるし、将来役に立つ知恵も技能も身についていきません。そんな勉強ならやめてしまえと、そんな過激なことまで考えてしまうときさえあります。もちろん、人生に無駄なことなど何一つないのですけれど。