しかしながら、いつまでも分類することで満足していたのでは、科学は科学になりません。分類することは、ある意味で自然界を単純化することです。世界に無数の獣がいると考えるのではなく、それぞれ有限な個体数をもった犬や猫、牛や馬、羊や山羊、ネズミやイタチがいると考えるほうが、シンプルです。そして、その上にたって、そこに共通する性質やその他の動物との差異を発見することができます。共通性は、個別性よりも単純です。つまり、自然界を単純化していくことが科学のひとつの方向であり、分類と命名はその第一歩であると考えることができるでしょう。
なぜこんなことを書くかというと、人間の性質であるこの分類し、名前をつけることが、科学のあるべき方向とは全く別な方向に発揮されてしまっているのではないかと思うことが、特にこの業界に多いからです。その典型的な例が、算数の文章題の分類です。
これは小学6年生の生徒の話です。ある日、学校の勉強内容ではないのですが、彼には解けないちょっとむずかしい算数の問題があったそうです。それを友だちに見せたら、その友だちは、「ああ、これは相当算だね」と言って、すらすらと解いたというわけです。それが悔しかったのでしょう。「相当算ってなに?」と尋ねられました。
さて、小学校の文章題、その多くは中学にはいって方程式で解くべき性質のものですが、これには伝統的にいろいろな名前がついています。鶴亀算、旅人算、時計算などです。これは、同じパターンで解ける問題を分類し、名前をつけたものです。指導する側にとっては、「この子は鶴亀算は完全に習得したから次は旅人算を試してみよう」などと作戦を立てるときに便利なものです。
けれど、学ぶ生徒の立場に立ったとき、このような分類は意味がありません。なぜでしょうか。
分類し、名前をつけることで、生徒にとってこれはひとつの「解き方のパターン」であると認識されます。そのパターンさえ覚えれば、問題が解け、満点がとれるものとして了解されます。こういうパターンをひとつでも多くおぼえることが勉強だという勘違いが発生します。
小学生に文章題を解かせる意味は、いったいなんでしょう。鶴亀算ができることがそんなに素晴らしいことなのでしょうか。私はよく言います。鶴亀算は何の役にも立たない、なぜなら、買い物に鶴亀算を使いますか?と。はっきりいって、パターンをひとつおぼえることには点数を5点とか10点上積みすること以上の意味はありません。
算数とはそういうものだ、勉強とはそういうものだと思い込んでいるひとにとっては、「だからそれでいいんじゃない」としか思えないでしょう。けれど、たかが点取りゲームに人生の貴重な9年間(義務教育)や16年間(大学卒業まで)、あるいはそれ以上を費やすのでしょうか。あまりにももったいないことではないでしょうか。
小学生に文章題を解かせる一義的な意味は、論理的な思考能力を養うことです。それ以上の意味はありません。だとしたら、この「パターンをおぼえる」という発想ほど有害なものはないということがわかるはずです。練習問題は、分類し、パターン化して解法をおぼえるものではありません。すべて、まっさらなところから発想し、論理を自分で組み立てて答えを導くためのものです。それこそが勉強であり、トレーニングです。
そして、そういった訓練の果てに、「ああ、これとこれは同じものに分類できるな」という観察がうまれます。そのときに、自分の力でそれを分類すべきです。その分類が過去に行われてきたものと一致したときに、伝統的な名前を受け継げばいいでしょう。その頃には学ぶ側ではなく、教えることのできる側に回っているはずです。そのときになってようやく、分類と命名は意味をもちはじめるでしょう。
ただ単純に算術原理にもとづいて文章題を解くとき、そこに必要な知識はごくわずかです。その代わり必要なのは、大量の思考です。分類して複雑化すれば、ほとんど思考を必要とせず、同じ文章題を解くことができます。その代わりに、膨大な知識が必要になるでしょう。