その上で、「学習障害」という概念が非常に安直に用いられているのではないかと、私は感じています。「これって単に学校の成績がよくないだけで、学習障害じゃないでしょう」と思うことがしばしばあるのです。もちろん程度の問題はあります。けれど、正確な学習障害の定義に照らしててみればとてもあてはまらないような事例にまで、「学習障害」の概念が適用されているような気がするのです。それも、非常に誤った対応をとるために適用されているような気がするのです。
具体的にいうと、私が現在受け持っている生徒のうち、少なくとも3名は「学習障害」であるといわれています。それはおそらく正式な診断名ではないでしょう。学校で先生が「この子は学習障害のようだから」と言ったのが伝わってきたのではないかと思います。あるいはご家庭の判断かもしれません。本人が学習障害だと自分から言ったわけではないはずです。
そして、実際に、3名とも学校の成績はよくありません。テストで点があればめっけものといったぐあいで、計算問題が一問も解けなかったり、国語の問題でそもそもなにをたずねているのかが理解できていなかったりと、実に壮絶な状態で家庭教師を引き受けました。前回書いたような「受験勉強」以前にやることがいくらでもある生徒たちです。
けれど、指導をはじめてみると、「障害」らしいところはあまりみられません。政府の公式の定義によると学習障害とは、「基本的には全般的な知的発達に遅れはないが、聞く、話す、読む、書く、計算する又は推論する能力のうち特定のものの習得と使用に著しい困難を示す様々な状態」であり、「原因として、中枢神経系に何らかの機能障害があると推定される」ものです。たしかに、私の生徒は計算ができなかったり推論が苦手だったりします。本を読むのが苦手だったり、作文が下手だったりもします。けれど、いずれも「習得に著しい困難を示す」ものではありません。教えれば、それなりについてきます。不得意かもしれないけれど、「著しい困難」とは明らかにちがいます。
学習障害の「著しい困難」は、私は直接教えたことがありませんが、話には聞いています。たとえば、まず文字を文字として認識できません。訓練してどうにか文字を音にすることができるようになっても、それが言葉として意味をもつところにはつながりません。あるいは、そもそも「量」の概念がないため、計算ができません。たし算ですら、2つの量を合わせることですから、理解できません。また、左右の概念がなく、図形の認識が数学の要求するものとまったくちがっている場合もあります。このように、外界の理解の様式が一般と完全に異なっているために一般的な学問の学習が困難になる状態が「学習障害」なのだと私は理解しています。
そして、これは物理的な障害ですから、「がんばらないからだ」「勉強が足りないからだ」「要領がわるいからだ」といった理由にはまったくあてはまりません。視力のない人が書かれた字を読むことができず、聴力のない人が音楽をきくことができないのと同じことです。そして、視力のない人には点字で本を読むことが、聴力のない人には振動で音楽を楽しむことが用意されるように、学習障害の人には一般とは異なった経路で学習ができるような道筋が用意されなければなりません。それは専門的な資格をもった指導者が担当することになります。私のような家庭教師の出る幕はありません。
しかし、「うちの子は学習障害らしいんです」と初めに言い渡されて指導を始めた生徒たちのほとんどは、単純に基礎ができていないだけです。たとえば、8+7のような十の位に繰り上がる1けたの計算が正しくできません。これは小学1年生で学ぶことですが、実は半分くらいの生徒はこの計算を誤っておぼえてしまっています。それはそれでかまいません。というのは、さらに学習を積み重ねていく中で徐々に修正されていくからです。ところが、この誤った理解がもとで次のステップで大きく躓く生徒も中にはいます。たとえば15−8のような繰り下がりのひき算です。ここで失敗すると、次の筆算があやふやになります。その上のかけ算の筆算、割り算の筆算が、ますます怪しくなります。それでも多くの生徒は、学習の積み重ねの中でそれを修正していきます。けれど、なかには修正が追いつかず、結局基礎が何一つ築けないままにさらに高度な学習範囲に周囲が進み、気がつくと「学習障害」のレッテルを貼られるようになる……。そんなケースが少なくないのではないかと思うのです。
小学校1年の学習範囲にもどってきちんと説明すれば、「学習障害」とよばれている子どもたちでもきちんと理解できます。つまり、これらの子どもたちは「学習障害」ではないと、私は思うのです。「中枢神経系に何らかの機能障害がある」のなら、普通の説明をしても理解できるはずはありません。単純に学力の遅れ、それも原因は基礎学習の不備に過ぎないものを、「学習障害」として切って捨てようとしているように私には思えてなりません。
学校には、さまざまな子どもたちが学んでいます。学習内容の理解の程度もさまざまです。その中で、なかなか理解の進まない子どもに基準を合わせていたのでは、どうしても課程が進められなくなります。その結果、不本意でも理解の追いつかない子どもたちを切り捨てなければならない場合が、教室内で発生するのはやむを得ません。たとえひとつの単元、ひとつの学習項目でそういった見切り発車をおこなっても、多くの場合は子どもたちの努力で追いついてきてくれることが期待できます。
けれど、中には追いつけず、そのまま乗り遅れてしまう子どもたちもいます。かつてこういった子どもたちは「落ちこぼれ」とよばれていました。「落ちこぼれ」ということばには、子どもが自分から「落ちこぼれた」のであって教える側は関係がないという責任の転嫁がみられます。むしろ子どもを取りこぼしてしまったのであり、これは教師の責任だということが、その時代にはよく指摘されたものです。
いま、「学習障害」ということばが、同じような責任逃れに使われているような気がしてなりません。正式な診断としての学習障害ではなく、「どうも学習障害の傾向があるようですね」という教師のことばは、教える側がきちんと教えてこなかったこれまでの積み重ねを「中枢神経の何らかの機能障害」に責任転嫁しているように思えてならないのです。
学習障害は、きちんと対応されるべき「障害」です。けれど、学習障害でもないものを学習障害と呼んで適切な対応ではない対応を選択することは、実にさまざまな弊害を生むように思います。このことについては別の記事で別の機会に書くことにしましょう。
私は、学習障害者に対する指導はいたしません。それは、その道の専門家がすべきことです。けれど、もしも「学習障害の疑いがある」と言われて学校から見放された子どもたちがいるのなら、喜んでその指導をしてみたいと望んでいます。自分の指導が役に立つかどうかは、1ヶ月も教えればわかります。そして、その結果、「学習障害」なんてことばは単なる言い訳だったとわかれば、それはそれで素晴らしいことではないでしょうか。