子どもに勉強するよう求めるときに親がつく最もあからさまなウソは、「勉強しないとおとなになってからこまるよ」というタイプのものです。私はこれは、絶対に言わないように心がけています。
これがウソであることは、おとなであればだれだって説明されなくったってわかるでしょう。たしかに小学校で教えられる教育漢字、小学校の低学年で学ぶ足し算、引き算、掛け算、割り算、そして場合によっては中学年までに学ぶ分数や小数の計算は、身についていなければ「おとなになってこまる」類の知識・技術です。これらの勉強に関してだけいえば、「おとなになってからこまるよ」という脅しはウソでもなんでもありません。けれど、これが真実であるのはごくごく限られた部分だけです。たとえば算数のその他の内容、図形やら統計やら数量関係などは、知らなくても日常生活にこまることはほとんどありません。国語の読解ができなくったって、理科や社会で習ったことを完全に忘れていたって、おとなはこまりません。
こういう仕事をしていると、小学校や中学校でなにを習ったのか、およそのことはわかります。だから、日常の会話で「それって小学校で習ったことだよね」みたいなことを言うと、たいていの場合、「そんなこと習ったかなあ?」という返事が返ってきます。おとなはほとんど、小学校でなにを習ったかおぼえていないものです。それでも、立派な社会生活を送っています。漢字と四則演算以外は、だいたいは忘れてしまっていっこうに差し支えないことばかりです。
まして、中学校の学習内容のどこが日常生活に必要でしょうか。方程式を立てて買いものをする人はいませんし、庭石が火山岩か深成岩かを気にするひともいません。漢文を読む機会はそういう趣味がなければまず訪れませんし、過酸化水素水に二酸化マンガンを入れるのは学校の実験室だけのことです。旅行に出かけるときに地理は少しだけ役に立つかもしれませんが、知らなくても楽しみが減ることはありません。英語でさえ、多くのひとにはめったに使う機会のない道具でしょう。そして遠からず、スマートフォンが通訳の代わりをしてくれるようになるはずです。
だから、学校の勉強ができなくったって、将来こまることなんかまったくありません。おとなならだれだって知っている常識です。もちろん、ほとんどの社会人がそれぞれの職業の専門家であり、それぞれに深い知識や技量をもっています。けれど、ほとんどのひとが、そういった知識や技術は社会に出てから現場で叩きこまれたと証言するのではないでしょうか。「学校で習った知識なんて役に立たないよ」と、ほとんどのひとが思っているのではないでしょうか。
では、なぜ勉強するのでしょう。それは、知識を貯めこむためではありません。試験問題を解く技術を身につけるためでもありません。そうではなく、未知の問題に行き当たったときに、それを自力で解決していく能力を養うためです。姿勢といったほうがいいかもしれません。自分自身の頭脳を最大限に使って自分自身の工夫で問題を解決していくこと、それが勉強で培われる唯一の重要な資質です。
社会に出たら、必ず、未知の問題に行き当たります。模範解答はありません。自分自身で考えて、道を切り開いていかねばなりません。そのとき、訓練のできたひとは迷いません。そういう訓練をする場が、学校なのです。
そう考えれば、模範解答を暗記するような学習方法がいかに無意味かがよくわかるでしょう。重要なのは、自分の頭で考えることです。考える訓練が勉強です。だからこそ、若いうちに勉強をしなければなりません。
だから、父親である私は、息子に「勉強をしろ」と言います。「将来こまるから」という理由付けだけは避けながら。