どのくらいの生徒が「好きです」と答えるでしょう。統計がとれるほど数多くの生徒を指導してきたわけではありませんが、まず10人に1人ですね。記憶に残っているのは2人だけです。あとは、ちょっとためらいながらも、「嫌いです」「好きじゃない」と答えます。言うのもはばかられるというように首をふる生徒もいます。だいたいの生徒は、勉強が嫌いなんですね。
人間は、新しいことを学ぶことを好むものです。これは好奇心とよばれます。意識していようといまいと、普通、人間は学ぶことを嫌うものではありません。ただし、勉強はそうではありません。つまり、学校の勉強は、人間の本性である「学ぶ」行為とかけ離れた行いになってしまっているのですね。
そのこと自体も問題なのですが、もっと問題だと私が感じるのは、10人に1人、「好きです」と答える生徒の将来です。危ない、と感じるのです。なぜなら、そういう生徒には、ほころびが見えるからです。
私は、こういった質問、あるいはどういった質問に対してでも、生徒は嘘をつかないものだという前提で話をします。嘘をついてもしかたないことが生徒にも教師の側にもはっきりとわかっているから、嘘をつくはずがないだろうと考えるのです。これが学校の教師に対してなら、嘘をつくことで成績を少しでも上げるとか、他の生徒よりも良い待遇を受けるとか、なにかメリットがあるでしょう。家庭教師に対しては、そんなメリットはなにもありません。メリットのない行為は、ふつうひとはしないものです。
だから、「勉強が好きです」と答える生徒は、おそらくそう信じているのでしょう。「自分は勉強が好きだ」と、自分自身で思い込んでいるのです。そして、それが危ういと、私は思うのです。
そういった生徒は、まじめです。宿題を出すときっちりこなしてくるし、受け応えも好ましいものです。けれど、ときどき「ほんとうにわかってるの?」と思わされます。理解していなければ解けないはずの問題に正解を出しながらも、ところどころに「ほんとうにわかっているならこんな書き方はしないだろう」という兆候を見せるのです。
私の感じるところでは、こういった生徒は周囲の期待に答えることに自分のアイデンティティを依存しているひとたちです。周囲が「この子はこうあってほしい」と望む姿に自分を合わせることで、自分自身を確立します。だから、「勉強が好きな子」を自分自身に重ね合わせようと努力します。その努力の過程で実際に問題集や参考書を大量にこなすので、形の上では勉強ができるようになります。
けれど、そういった勉強は、本当に内面からの好奇心の発露ではありません。だから、理解が表面的になります。そして、好奇心の結果としての学びではない努力は、だんだんと辛いものになります。無理をしているのです。その無理が重なると、いつか破綻します。
実際、「勉強が好きです」と答えた2人の生徒は、けっして成績優秀な方ではありませんでした。それだけならまだいいのですけれど、なんだかいっぱいいっぱいのびをしているような印象です。いつか壊れてしまうんじゃないかと、こっちがハラハラします。
家庭教師にとって、課題を出せばそれにきっちりと対応してくれる生徒はやりやすいものです。けれど、そのやりやすさに安易に乗っかっていると、いつか生徒を潰してしまうのではないかと、そんなふうに自重する必要も感じるこの頃です。