「がんばれ!」
「もっと速く!」
「追い越せ!」
けれど、コーチは言うでしょう。もっとスピードを落とせ、もっとペースをキープしろと。
素人である観客が「がんばれ」と激励するのはいいのです。それがランナーの励みにもなります。けれど、プロフェッショナルであるコーチは、いま、そのランナーがどういう状態なのかを正確に把握し、オーバーペースにならないように気を配ります。なぜなら、序盤で飛ばしすぎたランナーは、一瞬トップを奪うことができるかもしれませんが、42.195kmを走り抜くことができないからです。なんとか完走してもスタートダッシュの栄光は見る影もなく、ふらふらでゴールすることでしょう。マラソンは、ただがんばればいいというものではないのです。
同じことが小中学生を通じた9年間の勉強、あるいはその先まで含めて12年間、16年間の勉強にもいえます。ダッシュをかけて一瞬だけトップに立つことは可能です。けれど、そのペースを維持することはかんたんではありません。やがて子どもは負担に耐えられなくなり、レースから脱落してしまうでしょう。そして、何のために自分はがんばったのか、徒労感ばかりが残ることでしょう。
理科や社会は、「暗記もの」だといわれます。たしかに、猛烈にがんばって全てを暗記すれば、確実にテストの点数はあがります。けれど、人間は、覚えたことは必ず忘れます。完璧な記憶を保持しておけるようには、人間の頭脳はできていません。数ヶ月後、数年後には、がんばって覚えたことの大半を忘れてしまっています。ところが勉強は積み上げですから、必ず過去の学習を必要とします。すると、復習でまた覚えなおさないかぎり、前に進めなくなります。全てをまた暗記するのです。ただし、今度覚えなければならない事柄は、以前よりもはるかに増えています。このようにして、先へ進めば進むほど、暗記しなければならない事柄が加速度的に増加し、そして最後には「こんなにたくさん覚えられるもんか!」という分量に達してしまいます。理科や社会を「暗記もの」と考える先には、こんな未来がまっています。
そうではなく、理科や社会は、理科に特有な考え方、社会に特有な考え方を身につけるための勉強だととらえたらどうしょう。教科書や授業で出てくる知識は、覚えることが目的なのではなく、考え方を身につけるための素材に過ぎません。なにも暗記する必要はありません。考え方を身につけるときには必要になるのでわずかの期間だけ覚える必要はあるでしょう。考え方が身につけば、忘れてしまってかまいません。どのみち知識はすぐに忘れてしまうものです。
けれど、身につけた「考え方」は残ります。それは知識ではなく、知恵に結晶しているからです。そして理科的な考え方、社会的な考え方が残っていれば、次の学習に進んだときに、どんどん前に進んでいけます。既にそこまでの「積み上げ」ができているからです。新たに身につけなければいけない知識はごくわずかで、しかもすぐに忘れてしまえるものです。なぜなら目標が「たくさん覚えること」ではなく、理科や社会の考え方をより深めていくことになるからです。
2年後、3年後を見据えたとき、どちらが子どもにとって本当に大切な勉強方法であるのかは明らかでしょう。「がんばりなさい」「このぐらい覚えておきなさい」と子どもに声援をおこるのはかまいません。けれど、それが目標だとかんちがいさせてはいけません。がんばって暗記する勉強の先には、忘れてしまって途方にくれる未来だけがまっています。新しい考え方を発見していくことこそが、どこまでも続くのびやかな成長をもたらしてくれるのです。