これは、家庭教師が決して安くはないという事実とも関連しています。毎日家庭教師が来れば成績が上がるのはあたりまえです。けれど、費用の面からそれはできません。となると、家庭教師の指導による直接の効果よりも、家庭教師が学習習慣をつけることで勉強時間が増えることによる効果を期待したくなるのは当然です。
そして、家庭教師の側も、それに迎合した営業トークを行います。そして「学習習慣をつけるため」と称して大量の宿題を出します。タスク管理のためのツール、たとえば予定表であるとかチェックリストであるとかを用意することもあります。それらを実施することで「ほら、学習習慣がつきましたよ」と成果を報告するわけです。
けれど、そうやって「学習習慣」がついたように見えても、それは家庭教師の監督のもとで勉強しているに過ぎません。監督されてやることが本当に価値のあることには私には思えません。あるいは、家庭教師の監督がなくなったあとでもそれは本当の「習慣」として残るかもしれません。けれど、必要性を意識せずに行う習慣に、たいして意味があるとは思えません。
以前にも書きましたが、勉強は習慣としてやるべきものではありません。必要性を意識せずにやる勉強は、効果を上げません。時間つぶしの自己満足でしかないとさえ、私は思います。
家庭教師の需要がいちばん多いのは高校受験をひかえた中学生で、たいていは高校入学と同時にお役御免になります。けれど、たまには高校入学後も継続して教えに来て欲しいと要望されることもあります。今年もそんな生徒がいます。最近の彼を見ていて、「よく勉強するなあ」と感心しています。そして、それがいい加減な「学習習慣」ではなく、必要性を意識した時間管理によるものだということがよくわかります。自分自身のコントロールがきっちりとできています。たいしたものです。
そして、一見すれば「学習習慣」と見分けがつかないその態度は、高校受験を準備する過程の中で身についていったものだと思います。私は彼にはあまり宿題を出しませんでした。その代わり、いまこの局面でどこを補強する必要があるのかを常に意識させ、その補強のために何をすればいいのか、そしてその結果がどのように出てくるのかを常に強調していました。そういったことの積み重ねも、彼の成長には役立ったのではないかと自負しています。いま何が必要で、そのためにどうすべきなのかを意識しているからこそ、忙しい日常の中にきっちりと学習の時間を確保できているのでしょう。
形だけ、見かけだけをつくることは比較的簡単です。けれど、中身をつくらなければ、本当の成長はありません。長く生徒と付き合うほどにそういうことを思うこの頃です。