しかしまた、家庭教師は何でも屋ですから、ふつう英語教師が忘れてしまっている微積分の問題やベクトルの問題が解けたりします。数学教師が誤解してしまうような英文法を解説することもできれば、歴史の教師には理解できない化学の問題を即興でつくることもできます。こういった雑多なスキルは、それぞれ別々では、「だからどうなの?」というレベルでしかありません。けれど、これを総合するとずいぶんとちがうな、と思うことがあります。その例をひとつふたつあげてみましょう。
昨日、中学1年生に数学の基礎を教えていて、3xという文字式を3+xと計算されてしまいました。実はこれは初歩の段階ではよくあるまちがいです。中学2年ぐらいになると慣れてきてそういう事例は減りますし、中3ではほとんどの生徒がまちがえません。乗算記号の×を省略するというのは、慣れだけの問題なのです。言葉を替えれば、慣れていなければこれはまちがえてもしかたないポイントでもあるわけです。
そこで、数学の教師は「ここをしっかり覚えましょう」と強調するわけですが、その理由までは生徒に教えられません。なぜ×を省略するようなややこしいことをするのかを説明できず、あるいは説明したとしても「そのほうが式が見やすくなるから」のような説得力のない説明しかできず、だから生徒もいまひとつ納得した顔を見せてくれません。
しかし、英語や国語を教える家庭教師には、なぜ×を省略するのかがすぐにわかります。これは文法のちがいなのです。
3xは、xという数の3倍と考えることができます。つまり、小学生的に把握するなら、xが3つぶんです。「xが3つ」と、数詞はxの後ろに来るのがふつうです。同じことを英語で表現するなら、three x's となります。これはつまり、3xという表記そのままです。数詞のあとにそのまま名詞をつけて「〜個」という意味になるから、なにも迷いません。3xは three x's だからxの3倍というのは、英語で考えれば何のふしぎもないことです。だから、「この際×は省きましょうよ」という合意が、ごく当然のように受け入れられてきたわけです。
日本語の場合、「さん・えっくす」と読んでも、そのままでは数字と名詞がつながりません。どうしても間に助詞が必要です。そして、乗算を表そうと思ったら「さん・と・えっくす・を・かける」と、間の助詞だけでなく、その後に動詞まで補ってやらなければなりません。もしもこの動詞を落としてしまったら、「さん・と・えっくす」となり、これは加算をあらわしてしまいます。ここがまちがいの発生する遠因なわけです。
だから、3xは、「さん・えっくす」と読むのが正しいのですが、まちがいを発生させないためには「みっつ・の・えっくす」と three x's に近い構文で理解させるべきです。係数が小数や分数になってくるとこの構文には無理が発生するのですが、少なくとも入門段階でまちがいを多発させる生徒には試してみてもいい方法です。そして、こんなことは何でも屋である家庭教師にしか思いつけない工夫です。
似たような例をあげましょう。中学生、高校生に化学を教えていて、けっこう面倒なのは化学式です。物質名から化学式を書くことができなかったり、化学式を見て物質名が推測できないのは初心者にはふつうです。その理由は、化学式に書かれた元素記号の順番と、物質名にしたときにその元素名を並べる順番がほぼ逆転しているからです。たとえば二酸化炭素は、「酸化」と「酸素」の存在を示唆する語句が「炭素」よりも先に来ますが、化学式はCO2と「炭素」「酸素」の順番になります。塩化銅は「塩素」の化合物をあらわす「塩化」が先に来て「銅」が後になりますが、化学式はCuCl2と、「銅」「塩素」の順番です。歴史的事情があってすべてがそうではないのですが、基本的に化学式と物質名では、表記順が逆転します。例外があるため「そういう規則だ」と教えない教師も多いのですが、化学教師の中にはこの逆順の法則を生徒に教える場合もあるようです。けれど、なぜそうなっているのかは教えられません。
これもまた、ヨーロッパ系の言語と日本語の文法のちがいから発生していることだということが、家庭教師にはすぐにわかります。たとえば二酸化炭素ですが、英語で書けばcarbon dioxideとなります。carbonは「炭素」、diは「二」、oxideは「酸化した」となりますから、つまりは二酸化炭素そのものです。そのものですが、語順はCO2そのものです。塩化銅はcopper chlorideですが、この語順はCuCl2そのもの。つまり、もともと化学式は元素記号を物質名に出てくる構成要素の順に並べて書けば済むようにできている非常に単純なものなのです。
これが逆転するのは日本語では基本的に連体修飾語は被修飾語の前に位置しなければならないのに対し、英語をはじめとするヨーロッパ系の言語では名詞を後ろから修飾することが可能だからです。二酸化炭素は「酸素によって修飾(modify)された炭素」の意味ですから、なによりもまず炭素、すなわち元素記号でCが先に来ます。塩化銅も「塩素によって修飾された銅」なので、Cuが最初です。しかし日本語では、いずれも被修飾語として最後にこなければなりません。これが化学式と物質名で語順が逆転する法則の原理です。
すべての生徒にその理屈を教えるべきとは思いませんが、英語が得意で化学が苦手な生徒がいたら、それはそれでけっこう有効な方法です。そしてこういうこともまた、教科をまたいだ知識があるからこそ思いつくことなのです。
視野を広く持つこと、目線を少し高く上げることが、学習指導に有効なケースは少なくありません。そして、家庭教師にはそういったアドバンテージを活かしていくポテンシャルがあるのではないかと思うこの頃です。