テストを出す側からいえば、この問いに対する答えは明瞭です。それは学力の測定であり、学習内容の理解度の確認です。学習した内容を正確に把握していればテストの問題には正解できるはずですから、当然のように点数が高ければ理解が十分、点数が低ければ理解が不十分だと判断できるわけです。入学試験などのふるい分けのためのテストであっても、この原則は通用します。それまでに学んだことをしっかりと身につけている生徒を入学させたいわけですから、能力を判別するためのテストで点数が高いほうを選ぶのは当然のことになるわけです。
しかし、視点を変えれば、物事の性格は変わります。生徒にとっては、テストは点取りゲームです。あらゆる意味において、学校ではテストの点数が高いほうがいいのですから、「どうやって点数をとるか」ということがテストのすべてになります。そして、点取りゲームを有利に進めるためのアイテムもさまざまに用意されています。ドリル、単語帳、参考書、パズルや語呂合わせ、マルチメディア教材にいたるまで、「これをやれば点数が確実に上がる」と主張するツールは無数にありますし、実際、それにコツコツと取り組めば点数は上がります。となると、あとは「やるか、やらないか」だけがテストの点数を左右するのであり、「やる気」こそが成績を決めるという世間一般の勉強に対するイメージが完成するわけです。
さて、テストに対する全く異なった2つの捉え方、どちらが正しいわけでも誤っているわけでもありません。どちらも、現実に学校で行われているテストの実際です。ただし、ここでやってはいけないことがあります。この2つを重ねあわせてしまうことです。すなわち、点取りゲームの結果を学力(学習内容の理解度)であると思いこむことです。この2つは全く別物です。完全に無関係とまではいいませんが、絶対に同じものではありません。そもそも到達しようとする目的がちがうのですから、同じものであり得るはずがないのです。
どういうことでしょうか? 学力をつけるための行動(これを「学習」と呼ぶことにしましょう)と、点を取るための行動(これを「勉強」と呼びましょう)は、似ているけれどちがいます。たとえば、中学3年の数学の学習内容に「二次方程式の解の公式」があります。この範囲での学習項目には、「解の公式の成り立ちを理解すること」と、「解の公式を利用できること」があります。そもそもなぜ二次方程式を解の公式を使って解かねばならないのかからはじまって、それをどのようにして導くのか、どのように使うのかなどを理解することがこの範囲で学習することの主要部分です。そして、それを理解したことを活用して、二次方程式を解いてみて、「なるほど、たしかにこれは使える」と納得して、学習が完了します。もしもその理解が完璧なら、これだけでテストで満点(少しのミスは避けられないので実用的には90点以上)がとれるはずです。
しかし、現実はそれほど甘くありません。いいえ、それで満点がとれる生徒も実際にいるのです(ここは教科指導というものの矛盾ではあるのですが、ある学習範囲で満点がとれるためには、その範囲内で必要とされることが100%理解できているだけではなく、その範囲を超えて理解することが必要になります。そこまで深く理解してはじめて満点がとれるようになります)。そういう生徒は実在するのですが、ほんのひとにぎりです。大半の生徒は、ほぼ問題ない程度の十分な理解を示していても、もっとずっと低い点数しかとれません。
そこで、「勉強」です。解の公式をすっかり暗記してしまうまで、繰り返し問題を解き続けます。こうすることで、理解が十分にできている生徒は満点(とみなしていい程度の正答率)にまで点数を高めることができます。
同じように「勉強」は、理解が不十分な生徒にもある程度は効果を発揮します。なにはなくともとりあえず解の公式を覚えれば、問題は解けるのです。ただし、理解が不十分なために使い方を誤ってしまったり、周辺の条件を読み違えてしまったりすることがあるので、それほど高い点数は期待できません。それでももちろん点数は上がりますから、「勉強をした効果はあった」と実感できることでしょう。
しかし、そうやって点数が上がったからといって、解の公式の理解が進んだでしょうか。否です。なぜなら、「勉強」では、解の公式を使って問題を解くことだけを練習し、なぜ解の公式が必要なのかとか、解の公式はどんな仕組みで求めることができるのかとか、「学習」すべき内容にはひとつも触らないからです。つまり、「勉強」をいくら重ねても「学習」にはなりません。「なりません」と言い切っては語弊があります。ならない場合が多いぐらいにいっておいたほうがいいのかもしれません。ただ、もともと目的がちがうわけですから、たとえ「勉強」が「学習」を助けることがあってもそれは偶然であり、そこに期待するのは甚だ効率がわるいことだといえるわけです。
仮に、「勉強」をせずに50点しかとれない生徒が頑張って「勉強」をして70点をとったとします。この生徒は、「勉強」をせずに(つまり「学習」だけで)70点をとった生徒と同じレベルの「学習」理解に達しているでしょうか。否です。20点分はあくまで「点取りゲーム」の勝負に勝ったボーナス点であり、「学習」理解は50点分でとどまっています。見かけは同じ70点ですから、成績の評価は同じになります。なので、「がんばってよかったね」となるわけです。本当でしょうか?
その1回だけのテストなら、それでいいのです。たとえば入学試験です。これは1回こっきりのテストですから、そのときだけ点数が取れれば合格です。これほどわかりやすい点取りゲームはありません。だから、受験前の2〜3ヶ月を点数アップのための「勉強」に費やすことに私は何の異論もありません。そういうサポートをして生徒の点取り能力がどんどん上がっていくのを見るのは私にとっても快感です。
けれど、そういうことばかりしていていいのか、というのが重要なところです。「勉強」は時間を食いつぶす悪習慣です。点取りゲームの技法に上達しても、およそ何の役にも立たないのです。
国語の指導は、実は難しいものです。古文や文法といった定型的な設問への対策は比較的簡単です。漢字の読み書きには書き取りがいいでしょう。国語力が極端に低い生徒への指導法も、それなりには工夫できます。厄介なのは、「ふつうに日本語は理解できるし読み書きも不自由ないのに国語の成績がぱっとしない」生徒です。実は多くの生徒がそういう範疇に入ります。こういった生徒には、短期的な成績向上のためのレシピはありません。長期的には、読書習慣をつけ、作文を繰り返し書かせることで対処できます。言い換えれば、読書や作文を日常的にやっていれば、国語なんてほとんど勉強しなくても高得点が期待できるものなのです。
ですから、私はすべての生徒に対して、初対面のときに読書習慣があるかどうかをチェックします。先日も、高校二年生の新しい生徒をもった折に、読書習慣の有無を尋ねました。ちなみに、国語の成績はそれほど悲惨ではないのですが、読解問題を非常に苦手にしています。彼女の答えは、「小学校の頃はたくさん本を読んだのだけれど、それ以後はほとんど読んでいない」とのことでした。そこで「なぜ中学に入ってから本を読まなくなったの?」と尋ねたのですが、その答えは私にとってショッキングなものでした。「勉強が忙しくなったから読む時間がなくなった」。
優秀な高校に通う彼女は、たしかに多くの時間を「勉強」に費やしたのでしょう。その結果としていまの彼女があることを否定はしません。しかし、なんという犠牲でしょう! もしもそこまで「勉強」に時間を潰されず、小学生時代にスタートした読書を続けていたとしたら、彼女の国語の成績はもっとずっとよかったはずです。そして、苦手としている数学の証明問題でも、もっとずっと点数がとれるようになっていたはずです。現代国語の読解力は、実は数学の論理的思考と直結しています。国語の読解力が低い生徒は、複雑な証明問題を苦手とする傾向がはっきりと見て取れます。そして、資料の読み込みを必要とする社会科や、やはり論理的な思考が重要になる理科、言語のちがいはあれ長文解釈では国語と同様の読解力が重要になる英語など、すべての教科に国語力は大きな影響をあたえます。もしも彼女が、読書に差し支えない程度に「勉強」を抑えていたら(たとえば塾に通う時間を半分にしていたら)、そのぶんの点数は一時的に下がったかもしれません。けれど、上記のように国語だけでなく他の教科の点数もすべて読書の好影響で上がったはずだと推定できます。短期的なダッシュだけなら「勉強」のほうが効率的でも、数年に渡る長期的な影響であれば読書に代表される基礎的な「学習」を積みあげるほうが、多くの場合、効果は高いのです。失ったものはあまりにも大きいではありませんか。
そして、さらに先を見据えたときに、この効果のちがいは大きく増幅されていきます。現に、高校2年で現代文の読解問題の正答率を上げようと思っても、効果的な対策はあまりありません。地道で時間のかかる学習を積み重ねるしかなく、それをすることで他教科に充当する時間が削られ、学習計画はどんどん破綻していきます。それはあまりに現実的ではないので「国語は捨てましょう」と、理科系への進路をすすめることになります。しかし、その方向に進んでも、読解力と直結した論理思考能力に足かせをはめられたままですから、苦しい戦いを強いられることになります。そんな苦境をサポートしなければならない家庭教師として、「なんで勉強なんかに無駄な時間をつぶすんだよ!」と文句を言いたくなっても当然だと、そうは思いませんか?
「成績」がテストの点数によって決まるのは現実ですし、その「成績」を向上させる役割を期待されるのが家庭教師であるということは重々承知しています。だからこそ、無駄な「勉強」をやめてほしいし、そのためにはまず、「学力」と「点取りゲームの技術」のちがいをわかってほしいと常々思います。テストの点数には、いろんな要素が反映されるのですから。